東部植民地の成立と、先住民の抵抗

アメリカ合衆国
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イギリス人の渡米と現地勢力

 イギリス人の渡米は遅れました。

 1520年頃から、イギリスの漁師はアメリカの東岸をしばしば停泊地として利用してきましたが、本格的な植民に至ることはありませんでした。その状況が変わったのは、テューダー朝のエリザベス1世の時代からです。

 16世紀末、英西戦争の始まりと前後するように、徐々に北米への移民が始まります。最初は王室の勅許の下、開拓が進められましたが、17世紀に入ると、雪崩を打ったように次々と商会が投資資金を集めて植民地運営に乗り出していきます。
 こうして初期のイギリス人移民が現在の合衆国東部に足を踏み入れた時、その地で勢力を誇っていたのは二つのグループでした。

イロコイ族は木材を用いて強固な砦を築いた

 オンタリオ湖の畔から東側の広い範囲、現在のペンシルバニア州とニューヨーク州にまたがる地域を、イロコイ族が占めていました。正確には、一つの民族というより、複数の部族の連合体だったといえます。西からセネカ、カユガ、オノンダガ、オネイタ、モホークという五つの集団が同盟を組み、16世紀末に周辺部族に対抗する動きを見せていました。18世紀初頭になってからは、タスカローラ族もこの連合に加わります。
 この連合は、かなりの団結力を持っていました。紛争の仲裁を除いては、連合が各部族に内政干渉することはなかったようですが、対外的には、それぞれの集団から五十人の代表を選出し、彼らに外交を任せて連合の利益を守らせていました。
 この「イロコイ連邦」は、北米でもかなりの武力をもった集団でした。彼らは五大湖からビーバーの皮を採取して、それを最初はオランダ人、続いてイギリス人に引き渡し、代わりに銃器を手に入れるようになりました。
 一方、フランス人には敵対するようになっていきます。というのも、より北方に領土を持ったフランス勢力は、イロコイ族の宿敵であるヒューロン族と手を結んだからです。

ビーバーの毛皮の交易で、彼らは銃器や西欧の物品を入手した

 イロコイ連邦はこの後、しばらくイギリス人勢力と共存を続けます。それは18世紀半ばまで続きました。

ポーハタンとポカホンタス

 それよりもう少し南、現在のヴァージニア州、ワシントンDCよりやや南の地域を中心として、アルゴンキン族の連合体がありました。アルゴンキン、ショーニー、アブナーキ、デラウェア、モヒカン、ナラガンセット、ナンティコク、ピークォットといった諸部族の緩やかな同盟です。
 ポーハタン連合の名で知られるこの集団は、1607年、イギリスの植民者と初めて遭遇するアメリカ先住民となりました。なお、イギリス人は族長のこともポーハタンと呼びましたが、本当の名前はワフンスナコックといいます。ポーハタンは部族の名前なのですが、族長の名前ということで通ってしまっていますね。

 このポーハタン連合について、当時の人は次のように書き残しています。

「ポトマック川以南のポーハタン族同盟の料理は約8000平方マイルに及び、30の部族、2400名の戦士を擁していた」
「ジェームズタウンから60参るの範囲には5000人が居住し、うち1500人が戦士であった」

 イギリスやスペインはもっと多くの人口を抱えていましたが、植民者は圧倒的に少数であり、よってポーハタン連合の強さは確かなものでした。イギリス人も征服はできず、スペイン人にも対抗し、敵対していたチェサピーク族を滅ぼすこともできました。

 ワフンスナコックは、当初、入植してきたイギリス人に対して友好的でした。取引や交渉にも応じ、食料を分けてやることもあったようです。
 ですが、そうした穏健な態度に対して、入植者は土地を奪い取ろうとするばかりでした。ゆえに彼は、何度かイギリス人入植者を攻撃することになりました。それも無理はありません。イギリス側は手段を選びませんでした。ワフンスナコックの娘であるポカホンタス(……はあだ名で、本名はマトアカ)を誘拐、監禁して、交渉の材料に使おうとしていたのです。
 そうした争いも、1614年にマトアカが入植者のジョン・ロルフと結婚したことで、一応の終わりをみました。ワフンスナコックもこれを追認し、土地を与えて二人を住まわせました。

スミスの殺害を止めるマトアカと、それを許したワフンスナコック

 ポカホンタスといえば、ディズニー映画にもなっていますね。ただ、内容は史実とはまったく違います。インディアン団体からも批判を浴びる始末という……

 あと、トランプ大統領がエリザベス・ウォーレン上院議員に向かって「ポカホンタス」という言葉を使ったこともよく知られていますね。もちろん、ここでは差別的な意味合いを含めてのことです。
 実際、ウォーレン氏の遺伝情報を調べたところ、祖先にアメリカ先住民がいたことが明らかになっていますが、実はこれはそこまで珍しいことでもないのです。というのも、マトアカは混血の子を産んでおり、彼はバーモント州で暮らしました。その血筋が子孫を通じて広がったために、現在白人とされている人々の間でも、先住民の血筋が残っているのです。

エリザベス・ウォーレン上院議員

 もっとも、これはハッピーエンドではありませんでした。
 マトアカはその二年後に夫と共にイギリスに渡航し、翌年病死しました。それでも、ワフンスナコックが死ぬまでは、イギリス側との争いは広がらずに済みました。

マトアカは先住民の見本として連れまわされ、
イギリスに取り残されて病死した
ジョン・ロルフは後にイギリス人女性と再婚した

 1618年にワフンスナコックが死去すると、状況は悪化しました。
 後継者となった異父弟のオペチャンカノフは、1622年にイギリス人入植者を攻撃し、350人あまりも殺害したのです。彼には「世界」が見えていなかったのかもしれません。入植者の社会だけを見れば大打撃でも、イギリスというユーラシア大陸の西端に位置する大国にとっては、なんてことないダメージでしかなかったのです。それに、旧大陸の執念深さ、復讐心というものをわかっていませんでした。
 それから20年以上もの間、イギリス人とポーハタン連合は抗争を繰り広げました。1644年にはポーハタン側が勝利を収め、500人ものイギリス人を殺害しました。ですがその2年後、イギリス側の反撃によってオペチャンカノフは捕虜となり、「反乱」に腹を立てた入植者によって殺されました。
 有力なリーダーを失った連合は数年のうちに解体し、人々は散り散りになりました。

怨恨の連鎖の始まり

 南東部でも、入植者の侵略は止まりませんでした。

 ここはチェロキー、チカソー、チョクトー、クリーク、ナチズ、セミノールといった多数の民族集団が暮らしていました。
 1654年、チェロキー族は初めてイギリス勢力と衝突します。それまで、北はヴァージニアから南はジョージア、アラバマ、ミシシッピ、一部はフロリダにも暮らしていた彼らですが、以後、百年に渡る紛争が続きました。

 それにしても、どうしてここまで白人入植者はネイティブ・アメリカンと激しく争ったのでしょうか。土地を奪うため、富を得るためだったのですが、それにしてもあまりに高くついたはずです。特に、入植当時のアメリカの技術力からすると、必ずしも先住民を一方的に蹂躙できるほどの武力はなかったのですから。
 実際、銃器は樹木を貫通せず、馬はすぐに狙われるようになり、それどころかそれらは交易などによって先住民の手に渡り、彼らに更なる戦闘力をもたらすことになりました。その結果、入植者は常に大きな犠牲を払ってきたのです。

 大きな戦争でなくても、小さな戦闘は東部植民地のあらゆる地域で、常に発生していました。
 例えばアメリカ独立前の17世紀後半には、現在のマサチューセッツ州にて、ワンパナグ族が入植者を追い出すために戦いました。1675年、族長メタカム(フィリップ)は、自分達の集落の傍に建設されたスウォンジーの街に危機感をおぼえて、ついに襲撃しました。以後、二年間に渡って入植者と先住民は、互いに憎しみを募らせながら、報復を繰り返していきました。

 銃声がしたので、私達は外を見ました。
 何軒かの家が燃え、その煙は天空にまで立ち上っていました。
 五人住まいの家が一軒ありましたが、父親と母親と乳飲み子は頭を斧で一撃され、あとの二人は生きたまま捕らえられ、連れ去られました。
 仕事で要塞の外に出ていたもう二人も襲われました。
 一人は頭を打ち砕かれ、もう一人は逃げました。
 もう一人走って逃げていく人がいましたが、銃で撃たれて負傷し倒れてしまいました。
 彼はお金をやるから助けてくれと命乞いしましたが(インディアン達が私にそう言いました)、インディアン達は聞く耳をもたず、その男の頭に斧の一撃を加え、彼を裸にして腹を引き裂いたのです。

 13人の死者が出たこの襲撃で、メアリー・ローランソンを含む24人が捕虜となり、連れ去られました。以後、11週間もの間、彼女らは生死の狭間を彷徨うことになりました。インディアン戦士は足が速く、ついていくだけで精一杯だったからです。この虜囚生活の中で、彼女は年少の子供を失います。そして最後には、身代金の支払いによって、残った子供達二人と一緒に解放されることになりました。
 1682年になってから、彼女はその体験を手記にしました。上記はその一部です。

 このように、当初の植民地は常に先住民との争いがついてまわるものでした。

ワシントンも1732年、ヴァージニアで生まれた

 アメリカ独立以後、入植者はネイティブ・アメリカンに対して激しい攻撃を加え、虐殺も厭わなかったのですが、その背景には、こうした積み重ねがあったのです。
 例えば、ジョージ・ワシントンは1732年、ヴァージニア州で生まれています。少し前から、上記のメアリーのような世界が周囲の常識だったのです。そんな彼にとっては、インディアンは猛獣と同じでした。
 とはいえ、当時のイギリス人が先住民を巧みに利用しようとしていたことは、忘れるわけにはいきません。ある時は交易で、またある時は戦争や脅迫によって、自分達の利益となることを押し通してきたのです。また、先住民同士の敵対関係を利用して、一方を自分達の手駒とし、もう一方にぶつけるのに使ったりもしてきました。
 入植から百年以上もの間、こういったことが続けられてきたのです。

 この状況の中で、イギリスのアメリカ植民地は18世紀を迎えたのです。

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