アメリカ合衆国の成立

アメリカ合衆国
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フレンチ・インディアン戦争

 先住民はどうすればよかったのでしょうか?
 力を結集してイギリスに立ち向かえばよかったのか。それとも、すべてに妥協して協力者の立場を守ればよかったのか。
 その問いに答える歴史的な存在が、イロコイ連邦でした。

 イギリスとの間でうまい立ち位置を見つけたイロコイ連邦ですが、フランスとイギリスの領土争いに巻き込まれていきます。

 イギリスの新大陸における支配地は、現在のアメリカ東部に限られていました。一方、フランスはより深く新大陸に踏み込んでおり、イギリス領の北側、現在のカナダにあたる五大湖の北側と、ルイジアナ、つまり今のニューオーリンズがある辺りを押さえていました。
 この二つの植民地の間を繋ぐべく、フランス側はオハイオ川に軍を進出させました。というのも、イギリス人入植者がオハイオに進出し、その地にいたデラウェア族やショーニー族が住む土地を追われた結果、フランス人の商売が立ち行かなくなったからです。ただ、イギリスにしてみれば植民地をぐるりとフランスに囲まれる形になるわけで、状況を座視できず争いに発展しました。

 おりしもヨーロッパではプロイセンとオーストリアが対立し(七年戦争、1756~1763)、これに巻き込まれる形でイギリスとフランスも北米植民地で争うことになりました。これがフレンチ・インディアン戦争(1754~1763)です。
 1753年にフランス側は利益を守るために、オハイオ川の流域に砦を建設しました。これに対抗してイギリス側は、ジョージ・ワシントンを指揮官とする軍を派遣しました。イロコイ連邦からも、セネカ族がその支援にまわりました。

当初はフランスが優勢だった

 ですが、1754年7月4日に、イギリス軍はネセシティ砦で大敗します。この時、優勢だったフランス側には多くのネイティブ・アメリカンの部族が合流していました。デラウェア、オタワ、アルゴンキン、ワイアンドット、アブナーキといった集団が、イギリスに敵対したのです。
 それからの四年間は、フランス側の優勢が続きました。オスウィーゴ砦(1756年)でもウィリアム・ヘンリー砦(1757年)でもイギリスは敗北しました。

モンカルム侯爵は虐殺を止められなかった

 この時、アメリカ先住民はイギリスの開拓民も虐殺しました。ウィリアム・ヘンリー砦では、フランス軍の将軍だったモンカルム侯爵は先住民を止めようとしましたが、それでも二百人以上が殺害されました。
 イギリス人は、インディアンの恨みをかっていたのです。イギリス側もネイティブ・アメリカンを仲間に引き入れようと、南方でチェロキー族に接触しましたが、結果はイギリス・チェロキー戦争でした。味方についたチェロキー族に不当な扱いをしたことがきっかけでした。

フレンチ・インディアン戦争当時のアメリカ東海岸

 それでも、イロコイ連邦との同盟関係を強化し、また当時のイギリス首相だったピットは、七年戦争においては戦力を植民地に集中したため、徐々に形勢が移り変わっていきました。1759年にはケベック、1760年にはモントリオールが陥落し、今度はフランス側が敗北を重ねることになったのです。
 こうして1763年、パリ条約が締結されると、フランス側は北米の植民地のほとんどをイギリスに割譲することになったのです。

 イロコイ連邦は、存在感を示したはずでした。逆境にあったイギリス軍を支え、勝利に導いた同盟者だったからです。
 事実、イギリスもこれには報いざるを得ませんでした。1763年の宣言で、アパラチア山脈以西のすべての土地について、先住民の恒久的所有権を保証しました。
 アパラチア山脈というとかなり南にある気がしますが、ともあれイロコイ連邦の勢力は拡大しました。東はデラウェア川まで、つまり現代のフィラデルフィアのすぐ真横まで、西はヒューロン湖、つまりデトロイトのある辺りまで、かなりの範囲を支配下に置くようになったのです。

 しかし、実のところ、これによってイロコイ族は、イギリス人にとっての先住民への仲介役という役目を失いました。
 イギリスとフランスが互いに争っている状況であれば、先住民にも存在感をアピールする機会があったのです。どちらの国も、先住民の支持と支援を必要とするだろうからです。
 しかし、北米がほぼイギリス一強で染まった時点で、イロコイ族は植民者にとって、重要な同盟者である以上に、目障りな存在になっていったのです。

アメリカ独立戦争

 せっかく手にした広大な領土ですが、その栄光はすぐ暗転しました。
 そのきっかけもまた、このフレンチ・インディアン戦争だったのです。

 本国からすれば、植民地の防衛と拡大は、あくまで利益を増やすためのものでしかありませんでした。そのため、膨らんだ戦費の回収を植民地に求めるのも自然なことでした。
 終戦翌年から相次いで砂糖法印紙法が成立し、植民地への課税は強化されました。これが植民地側の反対運動を巻き起こし撤廃されると、今度はタウンゼンド諸法が成立し、またもやアメリカへの課税が強化されようとしました。反対運動によってこれも撤廃されましたが、ただ、に対する課税だけは残りました。
 1773年に茶法が成立して東インド会社の茶が安価に流入してくるようになると、植民地の人々の不満は頂点に達しました。こうした中で、東インド会社の船に暴徒が乱入し、積荷の茶を海に投棄する事件が起きました。こうした反発に対して、本国側でも強硬な姿勢で臨んだために、両者の決裂は避けられなくなりました。

ボストン茶会事件、実行犯はインディアンのコスプレをしていた点に注意

 1775年、アメリカ独立戦争の勃発です。

 この時、イロコイ連邦の一部族、モホーク族から一人の青年が大西洋を渡りました。タイエンダネギー(ジョセフ・ブラント)です。彼はフレンチ・インディアン戦争にも従軍した戦士で、早くから白人の教育を受けた人物でもありました。
 ロンドンを目指した彼の目的は、自分達の居住地についての権利を確保することでした。帰国してからはイギリス軍に身を投じて、イロコイ連邦にも中立を捨ててイギリスに助力するよう訴えました。

タイエンダネギー

 彼の目論見が見当外れだったということはできないでしょう。アメリカ植民地は、本国イギリスに比べ、弱小でした。イギリスにはアメリカを攻撃する力がありましたが、アメリカにその能力はなく、かつイギリス軍の攻撃を支えきるにはフランスの助力がなくては不可能でした。
 そんな強国イギリスを直接見て、判断を下したのです。強いほうにつくことで、自分達の安全を図ろうとするのは、自然なことでした。

 ですが、イギリス側にも誤算がありました。
 国力ではアメリカを遥かに凌ぐイギリスも、大西洋という距離の問題を克服できなかったのです。戦略のミスというしかありませんでしたが、判断は常に遅れがちで、戦力は逐次投入されました。何より、アメリカは合衆国であって、陥落させれば済む首都というものがない敵でした。そのため、なかなか決着をつけられなかったのです。
 1782年、イギリス議会は停戦を決議し、翌年、講和条約が締結されてイギリス軍はアメリカから撤退しました。

 こうしてアメリカ独立戦争は終わりました。
 同時に、イロコイ連邦にとっては破滅の始まりとなったのです。

東部先住民の抵抗

 この時点で、まだイロコイ連邦は力を残していました。イギリス軍は敗れたものの、彼らはまだ負けたわけではなかったのです。むしろそれが悪かったのかもしれません。いつか敵対するかもしれない、軍事力を持った集団が、新生合衆国のすぐ隣に居座っている……

多くの黒人奴隷を保有する農場主だった事実も……

 それにワシントンは、ネイティブ・アメリカンを嫌悪していました
 フレンチ・インディアン戦争ではイロコイ連邦からの援軍を受けていたにもかかわらず、彼らが白人と同じように、同盟したり戦争したりする同じ人間と考えるつもりがなかったようです。
 彼に言わせれば、「インディアン」は「猛獣」でした。駆除すべき存在だったのです。彼は軍の指揮官としても、後に大統領となってからも、一貫してネイティブ・アメリカンを敵視し、虐殺を続けました。

 合衆国は、独立戦争でかかったコストを回収するためにも、更に西へと進出することにしました。彼らは土地を占有し、ネイティブ・アメリカンを追い払いました。こうした状況に多くの部族が危機感をおぼえて、大同盟を結びました。
 イロコイ連邦、そして長年敵対してきたはずのヒューロン、南方のマイアミ、チェロキー、東方のデラウェア、それにショーニーまで、多くのネイティブ・アメリカンが結集し、アメリカ合衆国に対抗しました。

アーサー・セントクレア少将

 ネイティブ・アメリカンの抵抗の中でも、もっとも大きな勝利となったのは、ウォバッシュ川の戦いです。どちらかというと、セントクレアの敗戦といったほうが通りがいいでしょうか。もちろん、負けたのはアメリカ側、アーサー・セントクレア少将の率いる軍でした。
 前年、大統領となったワシントンは、ハーマー准将にインディアンの掃討を命じましたが、戦力の集中を行わなかったため、数に倍する敵に襲撃を受け、敗北しました。これを重く見たワシントンは、七年戦争にも従軍した経験豊富なセントクレアに遠征を任せました。
 彼は二千の兵を率いて進軍し、オハイオ州フォートリカバリー近辺に宿営しました。この時、川のせせらぎの音が聞こえるばかりでしたが、実は茂みの向こうから、千を超えるインディアン兵士が様子を窺っていたのです。この部族連合を率いていたのが、ミシキナクワ(リトルタートル)、ウェヤピアセンワー(ブルージャケット)、テカムセらでした。

ミシキナクワ

 襲撃が始まると、一方的な展開になりました。
 先手を取った部族連合は激しい射撃を浴びせました。彼らは弓矢でも当時の銃器に勝るほどの腕前を誇っていましたが、大量の銃器も保有していました。独立戦争の敗北を忘れられないイギリス人が、横流ししたからです。
 大きな被害を出しながら、ようやく反撃の態勢を整えたアメリカ軍でしたが、せっかくの大砲は役に立ちませんでした。武族連合は接近しすぎており、大砲の砲口は上を向きすぎていたため、弾丸は敵の頭上を飛び越えてしまい、命中しなかったのです。また、当時のマスケット銃では、東部インディアンが得意とした遮蔽戦術……樹木などを体に挟んで的を小さくする作戦を打破できませんでした。つまり、銃弾の貫通力が低かったので、樹木の向こうにいるインディアンを射殺できなかったのです。加えて、彼ら部族連合には西欧の軍隊と違い、階級章もなかったので、誰がリーダーなのかも区別がつきませんでした。
 結局、セントクレアは六百名もの死者を残して撤退するしかありませんでした。一方の部族連合側はというと、たった二十一名の犠牲があっただけでした。

とりあえずの鎮圧

 この敗北を受けて、ワシントンはアンソニー・ウェイン将軍を起用しました。彼は軍を鍛える時間をたっぷりと取りました。
 反撃を予想したタイエンダネギーはアメリカとの妥協も模索していたようですが、連勝に気をよくしたウェヤピアセンワーは、その必要を感じていませんでした。

“マッド・アンソニー” ウェイン将軍

 1794年、フォールン・ティンバーズの戦いが起こりました。
 ウェヤピアセンワーはウェイン率いる合衆国軍を迎え撃ちましたが、三千人という数は、彼らの倍でした。また、騎兵に側面を衝かれたのもあって、彼は早々に撤退を決めました。近くにイギリス軍の砦があり、そこから食料供給も受けていたから、防衛拠点として利用しようとしたのでしょう。
 しかし、彼らは西欧の論理をわかっていませんでした。砦の門は閉ざされ、彼らを受け入れなかったのです。イギリス軍には、アメリカとの交戦許可が下りていなかったからです。
 今度はネイティブ・アメリカンの側が敗北したのです。ウェインはインディアンの集落を徹底的に破壊してから、去っていきました。そして、これによってオハイオ州は、合衆国の領土となりました。

敗れたテカムセは条約に調印しなかった
彼は次世代の抵抗を率いることになる

 これでいったんは東部インディアンの抵抗は終息します。
 イロコイ連邦も力を失い、徐々に西へと追いやられていくことになりました。結局、協力も抵抗も、役に立たなかったのかもしれません。
 それでも19世紀以降になっても、この地域では抵抗が繰り返されたのです。

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