東部インディアンの英雄と、抵抗の終わり

アメリカ合衆国
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強制移住と同化政策

 19世紀初頭、アメリカはヨーロッパの戦乱に直接巻き込まれることもなく、むしろその状況を利用さえしていました。

 三代大統領トマス・ジェファーソンは、ナポレオンからルイジアナを購入し、合衆国の領土を着々と広げていました。
 この時点でアメリカにはおよそ270万人もの植民者がいました。しかし、これは小さな数字で、本国だったイギリスに2000万もの人口があったことを踏まえて、合衆国は極力ヨーロッパの戦争には関わらない孤立主義の道を選びました。

トマス・ジェファーソン

 さて、1794年のフォールン・ティンバーズの戦いの後、アメリカ合衆国北西部は平穏でした。平穏といっても、それは合衆国と植民者にとってはという意味で、もともとこの地域に暮らしていたネイティブ・アメリカンにとっては苦難の日々でした。
 そして、この戦いを生き延びたショーニー族のテカムセですが、白人の侵略という問題を放置しておいてよいとは考えられませんでした。

テカムセは抵抗を諦めていなかった

 入植してきた白人達とは、そもそも価値観も違いすぎました。共有を原則とするネイティブ・アメリカンの考え方では、土地を個人所有するというのが、よくわからなかったようです。
 それに土地の所有権を主張し、僅かな物品と引き換えにして「契約は成立したから、ここから出て行け」と武器を向けてくる白人は、明らかに先住民の無知につけこんでいました。そもそも、条約の調印にしても、文字を知らないインディアンの酋長は、紙の上にバツ印を書き込むだけです。条文を読めもしないのに、契約も何もあったものではありません。
 なにより、時の大統領ジェファーソンはインディアンを「高貴な野蛮人」と呼びながら、その絶滅を計画していました。彼らを先祖伝来の土地から追い出す「強制移住」、そして彼ら固有の文化を捨てさせる「同化政策」を立案した最初の人物だったのです。

テカムセの大同盟と米英戦争

 テカムセは、もう一度諸部族が連合して白人と対決するべきだと考え、各地を旅して先住民に訴え続けました。また、テカムセの弟テンスクワタワは、宗教的指導者だったようです。彼が白人排斥を訴えると、先住民の支持が集まりました。
 残念ながら、全員が彼に賛同したわけではありません。ミキシナクワ(リトルタートル)のように、敗北を悟って合衆国の同化政策に従う酋長もいました。

ミキシナクワは抵抗を諦めた

 一方、インディアナ準州にはウィリアム・ハリソンが知事として着任していました。彼は更なる開拓を進め、州への昇格を果たすべく、白人の入植者を増やしたいと考えていました。
 そこで彼は、ミキシナクワらを代表に見立てて、彼らに条約への署名をさせました。例によってバツ印を書き込むだけです。そうしてハリソンは、ウェイン砦を建設しました。
 このことは、テカムセを激怒させました。土地の所有権は個人にない、よって全インディアンの同意がない以上、この条約は無効である、と彼は訴えましたが、ハリソンはまったく受け付けませんでした。

ウィリアム・ハリソン

 テカムセはいよいよ戦いに備えるべく、南部を旅しました。クリーク族セミノール族を訪ねて、協力を募りました。この時、共に戦うことを選んでくれたのは、クリーク族だけでした。

 彼が外遊している間に、ハリソンはテンスクワタワを脅迫することにしました。一千人以上の兵を率いて北上し、ティピカヌー川に至ったところで、テンスクワタワの使者がやってきました。話し合いのために、明日までは戦わないことにしたいと伝えたのですが、ハリソンは了承しつつも疑っていました。それで見張りを立てて野営しました。
 一方のショーニー族も、ハリソンの目的が襲撃であり、結局は戦闘が避けられないのではないかと疑心暗鬼になっていました。そこでおよそ五百人の戦士が、夜明け前に野営地を取り囲みました。
 せっかく見張りを立てておいても、白人が常識の中で見張っていたのでは意味がありません。インディアンのモカシンは足音を消しますし、彼らが装備している動物の皮は、うまく構えて動かすことで、動物そのものに擬態することもできるのです。そういうわけで、ハリソンはほとんど包囲されていました。
 それでも彼は慌てて応戦し、多数の犠牲を出しながらも、なんとかショーニー族の攻撃を退けることに成功しました。後に斥候を送ってショーニー族の野営地を確認させたところ、とっくに撤収した後だったので、彼はこれを勝利と解釈しました。

 実のところ、ネイティブ・アメリカンの視点では、これは勝ちも負けもない戦いでした。彼らは単に、夜襲という有利がある間は戦いない場合は戦いをやめただけだったからです。この辺の認識の違いには気をつける必要があります。

 ともあれ、これをきっかけに、テカムセら合衆国北西部の先住民は、再び武器を取りました。

 おりしもアメリカとイギリスは、再度戦火を交えるところでした(米英戦争、1812~1815)。ヨーロッパはナポレオン戦争の最中にあり、ちょうど大陸封鎖が行われていた時期でした。そのため貿易が差し止められ、アメリカ合衆国は経済的な不利益を蒙っていました。それが反英感情に繋がっていたのです。
 とはいえ、これはいまいちパッとしない戦争でした。イギリス側には植民地に戦力を割く余裕がなく、かといってアメリカ側も資金不足でろくな兵が集まりません。互いに決定打を与えられないまま、ダラダラと戦いが長引きました。

 そんな中で、先住民は自分達の存続をかけて、必死に戦わねばならなかったのです。
 テカムセは、この戦いの最中、1813年に戦死しました。彼を殺害したのは、リチャード・ジョンソンでした。

リチャード・ジョンソン

 一方、テカムセと同盟して、南部ではクリーク族が戦いを繰り広げていました。
 これの鎮圧に当たったのは、アンドリュー・ジャクソンでした。彼は、この直後に勃発する第一次セミノール戦争にも従軍しています。

アンドリュー・ジャクソン

 この戦争の結果、東部地域のネイティブ・アメリカンは決定的な打撃を受け、その集団の多くは失われました。
 一方……

 アンドリュー・ジャクソンは、七代大統領になりました。
 ウィリアム・ハリソンは、九代大統領です。
 そして、テカムセを殺したアンドリュー・ジャクソンは副大統領になりました。

 アメリカ合衆国とは何か? それはどのようにして生まれた国家なのか?
 彼らは選挙で選ばれたのです。

 インディアン強制移住政策は、以前から以後まで、一貫して継続して行われました。
 六代大統領ジョン・クィンシー・アダムズの時代、彼が「正当に」インディアンから土地を購入しようとして、以前のクリーク族に対する不当な取引と条約を改めようとした時には、白人達から非難の声があがったほどでした。もちろん、「インディアンなんかにそんな配慮は必要ない」という理由で。

セミノールの英雄、オセオーラ

 南部のクリーク戦争が終わった直後、今度はセミノール族が立ち上がりました。彼らは三度にわたって、実に1816年から1858年までのおよそ半世紀もの間、フロリダで合衆国に反抗し続けました。
 この時、南部にもまた、合衆国に抵抗する英雄が現れました。

オセオーラ

 1803年頃、オセオーラは現在のアラバマ州で生を享けました。
 彼はごく若いうちから実戦経験を積み始めました。第一次セミノール戦争は、1816~1818年の間に行われましたが、だとすると、彼は13~16歳の時期に、他の大人の戦士達に混じって戦っていたことになります。
 セミノール族が二度目に立ち上がった時、彼は部族を率いる立場になっていました。

 西部への強制移住にセミノール族は従いませんでした。
 1835年に、第二次セミノール戦争が勃発しました。しばしば「インディアンのベトナム戦争」とまでいわれるこの戦いは、合衆国が正面から勝利できなかった戦争でもありました。

 オセオーラは、ネイティブ・アメリカンが持つゲリラ戦能力を最大限に生かしました。のみならず、各部族間の情報連携を重視したので、それぞれの組織に副官を置きました。敵の弱点を見つけ次第、迅速に攻撃を浴びせられるようにするためです。
 その攻撃力を向ける場所も、既に決めてありました。兵站です。インディアンであれば、何でもないただの森の中から、いくらでも食料を見つけ出すことができます。一つの道を塞がれても、別の道をすぐ選ぶことができます。ですが、白人にはそれができないことを知っていました。合衆国の軍隊は大量の食料や弾薬を必要としており、それを決まったルートで運搬していたのです。
 それだけではありません。合衆国は犠牲を看過できない集団でした。だからオセオーラは意図的に無防備な民間人の農場を襲撃しました。そうすると、合衆国は余計な兵力を割いてそちらの防備に回さなければなりません。そうしておいてから、オセオーラは別の、もっと重要な戦略拠点を攻撃したのです。

 しかも、オセオーラは若く、また勇敢でした。
 1836年、ウイスラクチーの戦いについて書かれた合衆国公式の報告書からの引用です。

 この戦いでオセオーラは、兵の先頭に立って現れたが、彼の顔は、クリンチ将軍にも多くの兵にもよく知られていた。オセオーラは赤いベルトと三本の長い羽を着けていた。はじめは木の陰にいたが、大胆にもそこから飛び出すと、銃を構えて一発必中の腕前を披露し始めた。そうして全小隊から何度も一斉射撃を浴びるまで、そこに踏みとどまって戦い続けた。オセオーラが遮蔽に使っていた木は、文字通り木っ端微塵になった。

 彼に限らず、ネイティブ・アメリカンの戦士は、幼少期から弓の鍛錬を積んでいます。その技量を銃の射撃にも生かせば、すぐにでも「一発必中」になったのです。
 当時のアメリカ合衆国、そしてヨーロッパの軍隊は、それとは違って命令に従っての一斉射撃が一般的でした。ちゃんと狙わずにただ撃つのです。優れた狩猟技術を身に備えたインディアンにとっては、怖くもなんともない戦い方だったのかもしれません。

 合衆国軍は、オセオーラに勝つことができませんでした。被害は拡大するばかりで、戦場ではどうにもなりませんでした。
 しかし、トマス・ジェサップ将軍は、もっと効率的な手段を思いつきました。和平交渉を提案し、オセオーラをおびき寄せたのです。彼はその場で捕縛され、チャールストンの牢獄の中で、その生涯を終えました。

チェロキーの改革と「涙の旅路」

 こうして武力による抵抗が次々失敗に終わっていく中、ネイティブ・アメリカンの社会も意見の対立に揺れるようになりました。
 ミキシナクワのように、武力での対決を諦めて、合衆国に屈しつつも、その枠組みの中で生きていこうと考える人もいれば、テカムセのようにあくまで徹底抗戦を唱える人もいたのです。ただ、後者はだんだんとその数を減らしていきました。

 17世紀半ばにイギリス人と遭遇したチェロキー族は、以後、百年あまりに渡って抗争を繰り広げました。
 1759~1761年には、イギリス・チェロキー戦争を経験し、敗北した彼らはノースカロライナからサウスカロライナに至る広大な土地を奪われました。その後も彼らは抵抗を続けましたが、特にアメリカ独立戦争に並行して、1776年からチカマウガ戦争が始まりました。
 その指導者だったツィユー・ガンシニ(ドラッギング・カヌー)は、16年にわたって戦いを展開しました。晩年には、ウォバッシュ川でのミキシナクワらの勝利に刺激されて、彼もまた、同盟者を増やすべく活動しました。しかし、彼が急逝した後はふるわず、1794年に北方で部族連合が敗北した後は、こちらも休戦に至りました。

 以後、チェロキー族は戦争より近代化を選ぶようになりました。
 中にはプランテーションを経営する富裕なチェロキーも出てくるようになりました。また、1821年には、シクウォイアがチェロキー文字を開発し、これによって彼らは独自の文字をもつようにもなりました。

チェロキー文字の発明者、シクウォイア

 また、合衆国の軍事行動にも協力するようにしました。
 テカムセはチェロキー族の集落も訪問して協力を訴えたのですが、彼らは拒絶しました。逆に、テカムセに呼応して立ち上がったクリーク族との戦いに、合衆国軍の援軍として参加しました。ホースシューベンドの戦いでは、クリーク族の集落であるトホペカ村を、後に大統領となったジャクソンと共に挟撃しています。

 そこまでしたチェロキー族でしたが、その末路悲惨なものでした。
 1835年、ニューエコタ条約の調印に従い、チェロキー族はその住処を追われ、オクラホマに設けられたインディアン特別保護区に強制移住させられることになったのです。この強制移動は「涙の旅路」として知られています。移動中にも、また居留地でも、何千人もの人が死んでいきました。

涙の旅路

 こうして合衆国は、北米大陸東部の支配を着々と進めていったのです。

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