合衆国発展のはじまり
米英戦争を切り抜け、三度にわたるセミノール戦争を乗り切ったアメリカ合衆国は、西欧への政治的介入を捨てて、自国領土の拡大に邁進するようになりました。ヨーロッパの強国と争う代わりに、目の前のインディアンと戦うことを選んだのです。
ジャクソン大統領は公言しました。

「野蛮人で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」
ジェファーソンに始まる強制移住政策は、ここに「インディアン移住法」として明確な形を取ったのです。
1846年にオレゴンが合衆国に併合されると、それは飛び地も同然となりました。大西洋岸の広い範囲が既に合衆国の支配下にあったのですが、太平洋側はまだまだ手薄でした。それでも船でアクセスできる海岸地帯には、既に多くの欧米人が訪れていたのです。
独立を宣言したテキサスの領有を巡ってメキシコとの間で戦争が起き(米墨戦争、1846~1848年)、合衆国はこれにも勝利します。続いて1848年にカリフォルニアで金鉱脈が発見されると、ゴールドラッシュが始まりました。一攫千金を求めて、大勢の植民者が西を目指すようになったのです。

アメリカン・ドリームの始まりでした。
フロンティアは、より西にあったのです。
一方、アメリカでも産業革命が始まり、北部を中心に工業化が進んでいきました。アメリカ合衆国は資本主義の工業国へと変貌していきます。
しかし、南部は変わらずプランテーション経済のままでした。このギャップが、この後、先住民にとって小さなチャンスとなったのです。
世界三大クサい船
ところで、いきなり話は飛びますが、人類の歴史には「世界三大クサい船」というものがあります。
ここでいうクサいとは、文字通り、物理的に臭い、悪臭がするという意味です。

まず最初に登場したクサい船の筆頭は、ガレー船でした。これだけはアメリカと関係がありません。
地中海を暴れまわったサラセンの海賊は、捕虜にしたキリスト教徒の足を鎖で縛り、船を漕ぐ動力に使ったのです。当然、その場から離れられないので、長時間の航行においては「垂れ流し」です。つまり、糞便の臭い立ち込める悪臭船だったわけです。

あと二つは、まさにアメリカの船です。
ここで述べられている19世紀半ばにおいては、もう一つのクサい船、捕鯨船が活躍していました。石油が一般的に利用される以前、鯨油は照明用の燃料として、大きな需要があったからです。クジラを解体して油をとるので、甲板の上には臓物の臭いがこびりついて取れなかったことでしょう。こうしたアメリカの捕鯨船は、ハワイに立ち寄って補給を受けつつ、アメリカ大陸に鯨油を供給する役目を果たしていました。
しかし、クサい船のナンバーワンは、なんといってもこれ、奴隷船です。

アフリカ大陸で捕らえられた黒人は拘束され、鎖で身動きできないよう縛られた状態で、大西洋を渡ることになりました。当然、ガレー船と同じく「垂れ流し」ですが、それだけではありません。劣悪な管理状況の中でのことですから、多数の死者が出ました。その死体も腐敗して悪臭を発しますから、それはもう凄まじいことになります。
臭気においても非人道性でも、人類史の船の中の一つの頂点をなす存在だったのです。
南北の対立とアンクル・トム
そんな奴隷に依存していたのが、アメリカ合衆国の南部諸州でした。綿花の栽培が主要な産業だったため、どうしても人力での労働力が必要とされたのです。
一方、北部では事情が変わりつつありました。工業化の進展によって、労働力が不足する事態となったため、黒人奴隷を解放して工場労働者として使うようになったのです。というと聞こえがいいですが、要は経費節減ではないでしょうか。奴隷として丸抱えしていた場合、彼らの生活費すべてを常に賄わねばなりません。一方、工場労働者として自由にしてしまえば、不要になったら解雇すれば経費ゼロにできます。

そして南北には対立する理由が生まれつつありました。
北部は、生産された工業製品の国際競争に悩まされたため、関税を必要としていました。一方南部は、北部のライバルである「世界の工場」イギリスに、綿花という原材料を売る立場だったため、自由貿易のほうが都合がよく、関税はないほうがよかったのです。
ハリエット・ビーチャー・ストウは、この時期に有名な「アンクル・トムの小屋」を執筆しています(1851年発表)。

主人公のアンクル・トムは黒人奴隷です。しかし、優しい白人の主人の下で、幸せに暮らしていました。ところが主人が困窮したために売りに出されてしまいます。その先で出会った白人の少女を救ったことで気に入られることになり、そちらに引き取られて平穏な日々を過ごします。ですが少女とその父が相次いで死ぬと、残された一家の母はトムを不要として、邪悪な農場主に叩き売りました。日々、暴行を受け続けたトムは、そこで息を引き取ります。死の間際に最初の主人がやってきてトムを買い戻そうとしますが、その最期を目の当たりにして、奴隷解放を決意しました。
……というあらすじなのですが、冷めた目で見ると、アメリカにありがちな政治的脚色といえなくもありません。北部が黒人を奴隷から解放するのは、人道的な理由からではなく、経済的事情からです。また、買い戻しに駆けつけた「優しい主人」であるジョージにしても、要するにトムを売ったり買ったりしているのです。
また、彼女はもう一組の黒人の主人公を描いています。ジョージとエライザの物語がそれで、彼らは南部を逃れてカナダへと逃亡し、更にそこから明るい未来を手にするために、リベリアに旅立つという内容になっています。
これもよくよく考えると、では合衆国内に黒人の居場所はない、ということになります。トムを通してキリスト教的美徳の極致を描いておきながら、ジョージとエライザには、自発的に合衆国内で生きることを放棄させているのです。
結局のところ、この時代の白人の認識とは、そういうものだったのでしょう。
それでも、奴隷制についての悪印象を植え付けるという意味では、大きな役割を果たした作品となりました。
エイブラハム・リンカーン
1854年、北部の利益を代弁する共和党が成立しました。合衆国内部の対立はますます大きなものになっていきました。
合衆国はあくまで「連邦」国家なので、州ごとに「別の国」です。
だから現代でも、州ごとに税率が違ったりしますし、道路の制限速度も州境を越えると変わったりします。
そして、新たな土地が「開拓」されて……つまりネイティブ・アメリカンを追い出して白人が占拠した後、そこを合衆国の「州」として正式に仲間入りさせる時、どれを北部の奴隷禁止法に則ったものにするか、南部の奴隷制を容認する州とするのかで、深刻な対立が起こりました。

エイブラハム・リンカーンは、北部の利益を代弁する政治家でした。
もともと彼は弁護士として、イリノイ州を中心に精力的に働いていました。鉄道会社が西部に線路を拡張するのを助けるために、インディアンの土地権利の抹消処理を数多く引き受けてきたことでも知られています。
だから、北部の工場主は、いわば彼のスポンサー達でした。彼は奴隷制に反対していましたが、黒人を白人と等しい立場におきたいと考えていたわけではなかったようです。黒人に投票権を与えたり、代議士になることを許したり、白人と結婚できるようにするのには反対であると明言しています。
南北戦争、開戦
彼が1860年に大統領選挙に勝利すると、正式に就任する前から南部は分離独立の動きを見せ始めました。これは驚くに値しません。アメリカ合衆国はどうやって生まれた国家だったのかを思い出せばわかることです。イギリス本国の課税強化が引き金になって独立戦争が起きたのです。であれば、北部のための関税が、南部の独立を惹き起こすのも、やはり自然なことでした。

南部州の多くがアメリカ連合国を形成し、今にも先端が開かれそうな情勢になりました。
そんな中、南部サウスカロライナ州のサムター要塞の司令官だったアンダーソンが、ワシントンDCに物資を送るよう要求しました。これは彼が、あくまで合衆国の軍人として行動したからです。しかし連合国側からすれば、もはや「外国」となった合衆国からの命令を受け付けるということは、侵略にも等しいことでした。
リンカーンの就任から一ヶ月ちょっと。1861年4月12日、南北戦争が勃発しました。
開戦当初、どちらも戦いの準備は整っていませんでした。勢いで始まったようなものです。
最初に武力行使に踏み切ったのは連合国側でしたが、これは無謀としか言いようがありませんでした。なぜなら、当時のアメリカ合衆国全体の成人男子はおよそ五百万人で、その20%が南部にいただけだったからです。兵士にできる人口が圧倒的に少ない状況では、戦争が長期化した場合、勝機は小さくなります。
一方の北部も、明確に戦う理由を持ってはいませんでした。南部が分離独立しようと、さほど北部の不利益にはならなかったからです。
戦争の長期化と奴隷解放宣言
南北戦争の戦場は、東部と西部に分かれました。
特に激しい戦闘が繰り広げられたのが東部でした。というのも、人口密度も高く、何より両国の首都であるワシントンDCとリッチモンドは指呼の距離にあります。
サムター要塞の衝突から三ヵ月後、北軍は南部に侵攻しました。リッチモンドに肉薄するところまでいきましたが、南部としては北部に編入されるわけにはいきません。想定以上の抵抗により、北軍は撤退を強いられました。このために、戦争は長期化することになります。
序盤は、南部が優勢でした。リー将軍に率いられた南軍は、1862年夏の七日間の戦いで、ジョージ・マクレラン将軍率いる北軍を破りました。大損害を出しながらも、南部の士気は高まり、そのまま初秋のメリーランド州への侵攻に繋がりました。

しかし、ここでリー将軍は想定外の状況に困惑します。
メリーランド州は奴隷保有を合法とする州で、だから南軍の侵攻を受ければ、住民は好意的に対応するはずだと考えていました。ところが、実際に進軍してみると、住民は冷たい対応をとりました。
また、士気が高かったはずの南軍兵士にしても、北方への進軍をしたところ、「自分達の故郷を守る」という大義名分がないと考えて、脱走する者が絶えませんでした。ここで北軍を倒さないと南部の独立を守れないということを理解していなかったのです。

一方、迎え撃つマクレラン将軍も、消極的な司令官でした。
リー将軍が戦力を分割して移動させているとの情報を得ても、これを各個撃破するという決断をするのに何時間もかけてしまい、そのために機会を逸したりもしました。
結局、数的有利を得ても生かしきれず、この戦いは引き分けに終わりました。これに失望したリンカーン大統領は、マクレランを解任します。
ですが、南軍の撤退という事実をもって、リンカーンはこれを勝利として宣伝し、同時に奴隷解放宣言を発しました。
これは必要なことでした。というのも、イギリスやフランスはこれによって牽制され、連合国を国家として承認することができなくなったからです。自由と平等を標榜する合衆国が、奴隷解放のために戦うというのは、まったく筋の通った大義名分でした。
更に、これには軍事的メリットもついてきました。黒人達を北軍に編入するきっかけになったのです。自由を手にするためならば、と黒人達は望んで身を投じ、全力で戦いました。
ただ、白人と黒人が同じ部隊に所属することはなく、あくまで「黒人部隊」が編成されたという点は、覚えておく必要があります。
焦土作戦と北軍の勝利
一方、西部では北軍が一貫して有利を保ちました。
ウィルソンズ・クリークの戦いでは南軍が勝利したものの、そのままミズーリ州、ケンタッキー州を保持することはできませんでした。ドネルソン砦の戦いでユリシーズ・グラントは勝利を収め、1862年4月にはメンフィス、ついでニューオーリンズを陥落させるに至りました。こうしたことから、1864年3月には、グラントが北軍の総司令官に任命されました。

南北の戦いの帰趨を決めたのは、ゲティスバーグの戦いでした。
西部戦線の不利を補うために、リー将軍は更なる進撃を企図していました。そこでボルチモアやフィラデルフィアを陥落させるべく、交通の要所であるゲティスバーグに進出したのです。これを、任命されたばかりの北軍司令官ジョージ・ミードが迎え撃ちました。
どちらが勝ったともいえない結果ではありましたが、激戦の結果、南北双方に多数の死傷者が出ました。そして南軍にはもはや、その欠員を埋める国力が残っていなかったのです。

西部には、代わってシャーマン将軍が派遣されました。彼は9月にアトランタを陥落させて、海へと進軍しました。
シャーマン将軍は、焦土作戦を選びました。リッチモンドを支える後背地を、文字通り瓦礫の山に変えたのです。アトランタを焼き払って廃墟にすると、彼はサバナを目指して進軍し、ジョージア州を破壊しつくしました。農場、家屋、鉄道、綿花などの農作物……すべてまとめて破壊し、焼き払ったのです。
こうしてリッチモンドは南北から挟撃される形となり、南軍のリー将軍も降伏せざるを得なくなりました。1865年4月9日、南北戦争は終わったのです。

南部の焦土作戦の他、先住民の殲滅もした
スタンド・ワティーの戦い
この戦争は、先住民にとっても無視できるものではありませんでした。
まず、南北双方の軍が、先住民のスキルを欲していました。抜きん出た追跡能力、サバイバルテクニックを有するインディアンは、理想的な斥候だったのです。そして一方の先住民側も、戦争に参加する理由がありました。
例えば、南部連合軍は、チェロキー族に国家としての独立を認めるとしたのです。これで入植者の搾取から自由になれる、と夢を見たのも無理はありません。既に内部分裂を起こしていたチェロキー族ですが、その多くが南軍に身を投じました。そしてもちろん、一部は北軍の味方をしました。
戦争が激しさを増した後半には、先住民は目覚しい活躍を見せました。特にゲリラ戦では無類の強さを発揮しました。
1864年9月19日、インディアン騎馬旅団のチェロキー部隊は、スタンド・ワティーに率いられて、キャビン・クリークの戦いで北軍側に200名もの死傷者を出し、129台もの補給馬車、740頭のラバを奪取しました。彼は先住民でありながら、その戦功により、南軍の准将にまで上り詰めました。

しかし、そうした活躍は後に裏目に出ることになりました。
勝利した北軍側は、どちらの側にもチェロキー族がいたにもかかわらず、好んで悪い解釈をしたからです。土地の所有権は解消され、残ったのは戦争における数千人もの犠牲だけでした。
戦後のアメリカ
南北戦争は、南部を中心として、アメリカ合衆国に大きな爪痕を残しました。
これは次世紀の総力戦を予告するような戦いでした。国内戦争とはいえ、これによる死者は五十万人を数え、南部のインフラは徹底的に破壊されました。また、南部のプランテーションにとって必要不可欠だった奴隷が解放され、労働力が確保できなくなったことから、特にテキサス州では深刻な不況が発生しました。
小説「風と共に去りぬ」は、この時代の南部諸州の様子を描いたものです。奴隷制と、それに支えられた南部の栄華が、文字通り風(シャーマン将軍の破壊活動)と共に去っていったことを指しているのです。
では、よかったことはあったのでしょうか?
北部を中心とした合衆国は、国民国家としての統合に成功し、更なる西方への征服活動に邁進します。今のアメリカ東部が国の主導権を握る体制は、この時に確立されたのです。
奴隷解放は?
確かに、南部では北軍の占領下にあって、奴隷解放が進められました。しかし、いつまでも軍事的圧力で支配するわけにはいきません。1870年代には、ジム・クロウ法が南部諸州で成立しました。つまり、人種隔離政策です。
電車やバスは、白人と黒人で車両、または席が分けられました。レストランでも、同じ部屋で食事をするのは禁止されました。通婚も禁止です。同居もダメで、学校も白人用と黒人用、区別されました。また、投票に課税することで、黒人の投票を防いでいました。
これは20世紀半ばまで継続されます。要するに、何も解決なんかしてなかったのです。
けれども、大した問題ではなかったのでしょう。
リンカーン自身、黒人が投票したり、白人と通婚したりすることを望んでいませんでしたし、「白人の優位性を疑ったことはない」と述べてもいたのですから。とにかく戦争には北部が勝ちましたので、関税をかけることもできれば、黒人を奴隷から解雇可能な労働者にすることにも成功しました。
ただ一つ、うまくいかなかったのは、彼自身のことだけでした。1865年4月14日、観劇中に、彼は背後から銃撃を受け、暗殺されました。

リンカーンの死後、副大統領から大統領に昇格したアンドリュー・ジョンソンは、「妥当」な南部再建策を選びました。
南部の白人には恩赦を与え、奴隷制の廃止を定めた州憲法制定を条件に、連邦復帰を許すことにしたのです。そして、黒人の選挙権その他については、一切触れずに済ませました。
先住民は?
いろいろ言いがかりをつけられて、またもや土地を没収されました。
かつ、ネイティブ・アメリカンとしてのアイデンティティを捨てさせるというジェファーソン以来の伝統に忠実に従って、ホームステッド法を制定しました。これはインディアンにそれまでの生活スタイルを捨てさせ、農業に従事するよう強制するものでした。
大平原のインディアンだったスー族は、横暴な合衆国政府に抗議しました。保証した年金や食料の配給も止められ、訴えても無視されたために暴動まで起こしています。これに対してリンカーン大統領が選んだのは、鎮圧と大量処刑でした。アメリカ史上最大の同時処刑で、一度に38人もの命が奪われました。
余談ながら、アンクル・トムという言葉は、現代では悪い意味で用いられることがあります。というのも、トムは暴力を振るう白人に対して、一度たりとも反抗しようとはしませんでした。それゆえに「白人に媚びる黒人」というニュアンスがあるからです。
これをもじって、白人に媚びる先住民のことを「アンクル・トマホーク」というそうです。なかなかシャレがきいていると思いますが、このトマホークは役に立ったことがありません。今回もまた、スタンド・ワティーをはじめとしたインディアンの奮闘は、ただの犠牲で終わってしまったのです。
ともあれ、合衆国は西へと拡張を続けます。
大陸横断鉄道の建設は既に始まっており、一攫千金を夢見た人々は西部を目指すようになったのです。