大陸横断鉄道と大平原

アメリカ合衆国
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大陸横断鉄道と、新たな移民

 南北戦争中から、既に取り組まれていた事業がありました。大陸横断鉄道の建設です。

実はこれ、大陸横断鉄道開通記念式典当時の写真

 目的はいくつもありました。
 まず、太平洋岸のカリフォルニア、オレゴンと、東海岸の諸州とは、陸上で分断されていました。実際、この時代には西海岸で獣皮を買い集め、それをわざわざ南米大陸を迂回して、また東海岸まで輸送する、といったことも行われていました。陸上を押し渡るより、マゼラン海峡を潜り抜けるほうがマシだったのです。
 それと、インディアン対策です。この時代のアメリカの交通網は貧弱で、人々は東西を渡るのに馬車で隊列を組む必要がありました。そうでもしないと、大平原のインディアンに襲撃される危険があったからです。鉄道とその駅を拠点にして、インディアンを駆逐するという意味合いもありました。
 あとは、リンカーンとしては、西部の州の支持を失いたくないというのもありました。北部側に居残ってもらうために、ネブラスカ州オマハからカリフォルニア州サクラメンタまで、東西から路線を繋ごうとしました。

 このための労働力には、多くの移民が参加しました。

 西側からは、アイルランド系移民が多かったようです。これは1840年代のジャガイモ病害が関係していました。イギリスの支配下にあったアイルランドでは飢餓が蔓延し、人々はそこから逃れて生き延びるために大西洋を渡りました。そして、手っ取り早い肉体労働として、鉄道建設に携わったのです。
 しかし、その労働はあまりに過酷でした。唱歌「線路は続くよどこまでも」が、このアイルランド移民によるものというのは、割と有名なお話です。日本語の歌詞では楽しげな内容になっていますが、元の歌詞では「朝から晩まで働かされ、気付いたら奥さんを寝取られていた……」と解釈できるような、ひどいものになっています。

 東側からは、中国系移民が作業に従事しました。
 安価な労働力として都合よく利用されましたが、鉄道が完成した1869年以降、ゴールドラッシュも金の枯渇もあって競争が激化し、戦後の不況もあって、中国人への反感が強まっていきました。
 結局、1882年に中国人排斥法が成立してしまいました。

金ぴか時代

 移民の生活も過酷なものでしたが、アメリカ国内の分断も広がるばかりでした。
 一部の資本家が富を独占し、労働力以外には売るもののない階層が出現して、合衆国は一体性を失いつつありました。
 このページの扉画像は、この時代に建造されたビルトモアハウスのものです。このような豪壮な邸宅を建てられる資産家が生まれる一方で、貧しい人はますます貧しくなっていきました。

 また、黒人差別にしても、州の法律が変わったにせよ、形を変えてもっと根深いものへと変貌していきました、クー・クラックス・クラン(KKK)が成立したのも、南北戦争直後の1866年です。

クー・クラックス・クラン

 政治も腐敗し続けました。
 リンカーン暗殺後を引き継いだジョンソンは、南部に甘い政策を採り、北部に南北戦争の意義を問われることになりました。しまいには弾劾までされてしまい、影響力を失いました。

ジョンソン大統領

 続いて大統領となったのは北軍の英雄グラントです。
 しかし彼の時代は、汚職に塗れていました。北部と南部の指導者層は、戦前の北部の考え方に近付いていき、妥協しました。結果、黒人達は放り出され、結局は南部の農場所有者の小作人として生きていくしかなくなりました。

グラント大統領

 19世紀後半のアメリカは「金ぴか時代」とも言われます。
 拝金主義と俗物主義に支配された軽佻浮薄の時代だったからです。「古きよきアメリカ」が、物質主義のアメリカへと変貌していくのは、この世紀末の三十年間においてでした。

インディアンのステレオタイプ

 そんな時代であっても、いえ、そんな時代であればこそ、当局のインディアン撲滅政策は、一層勢いを増していきました。
 既に東部地域のネイティブ・アメリカンは始末がついていました。しかし、フロンティアは西に広がる一方です。ロッキー山脈の東側を占める大平原のインディアン、まずはこれが障害となりました。

スー族のティピー(テント)

 既に南北戦争以前から、アメリカ合衆国は大平原や南西部の荒野を占める先住民と衝突を繰り返していました。
 この時点で、合衆国の人口は四千万人にも達しており、一方の先住民は三十万人しかいなかったのです。もはや、残された先住民の運命は、風前の灯でした。

 しかし、この時代、白人が対決したインディアンこそが、インディアンのイメージを決定付けることになるのです。
 実際、その辺の人に「インディアンの絵を描け」と言ったら、どんな姿を描いてくれるでしょうか?

ハウハウ(現実にはそんな声出してません)
  • 手に弓矢、または飾り房のついた槍をもっている
  • 上半身は半裸で、頭に羽飾りをつけている
  • に乗っている
  • 顔などにペイントしていることもある
  • 「ハウハウ」と掛け声をあげながら入植者の農場を襲撃する

 これらの特徴は、ほぼ南西部および大平原のネイティブ・アメリカンに当てはまるものです。
 アメリカ東部はもともと森林地帯が広がっており、騎兵の活躍できる空間は、決して広くはありませんでした。そのため、西欧の入植者を迎えた先住民が導入したのは銃器であって、騎兵戦術ではなかったのです。
 ところが、西部に差し掛かると降雨量が激減するため、樹木はぐっと少なくなります。そしてこの地域の先住民は、南方を征服したスペイン人、そして彼らと交易していた定住型先住民のプエブロ族の仲介で、早い段階から馬を手に入れていました。

タオスプエブロもプエブロ族の建造物
サンタフェ付近にはコマンチ族がいて、深い交流をもっていた

 見晴らしのいい大平原で生きてきた彼らは、もともと長距離用の弓を手にした狩猟民でした。また、槍でバッファローの肩甲骨の隙間を突いて殺すことにも長けていました。東部の部族とは違い、彼らは槍を投擲に使うことはあまりありませんでした。
 それが馬の導入により、弓のサイズは小さくなりました。代わりに機動力を得られるようになったので、以前ほどの射程を必要としなくなったのです。加えて、銃器も導入されたので、こちらも東部と同じく、優れた射手が続出することになりました。

 こうして現代にも描かれるインディアン像ができあがったのです。
 入植者にとって、このような先住民は手強い敵でした。東部先住民と同じく、ヒットアンドアウェイを得意とした彼らは、簡単に捕捉できるような相手ではなかったのです。

一狩りいこうぜ

 そんな大平原のインディアンを倒すために白人が編み出した作戦、それが

「一狩りいこうぜ」

 でした。
 政府はバッファローの狩猟を奨励しました。大陸横断鉄道はそのために利用されました。なんと乗客に、乗車中のハンティングを許可していたのです。それで入植者達は車窓からライフルの銃口を向けて、ただの娯楽としてバッファローを射殺していきました。
 また、バッファローの毛皮はファッションアイテムとして人気が出ました。なので、毛皮だけを得るために、これまた大量に殺されたのです。

バッファローは何百万頭もいた

 この乱獲の目的はなんだったのでしょうか?
 スー族をはじめとする先住民は、バッファローに多くを依存していました。肉は貴重な栄養源となり、毛皮はティピーというテントの材料となり、骨は道具に加工されていました。
 直接に先住民の騎兵隊と戦うより、生存の基盤を破壊したほうが、ずっと簡単に数を減らせると、そう考えたのです。
 1874年、コロンバス・デラノは議会でこう発言しました。

 バッファローは急速に消滅しつつありますが、私はまだ手ぬるいと思っています。インディアンの獲物となり、生存を支えているこうした動物を絶滅させれば、インディアンの狩猟の習慣をやめさせて特別保留地へ強制移住させ、何をおいても市民としての習慣を身につけさせるという、政府の政策を推進することになります。

 結果、大平原を埋め尽くしていた数百万ものバッファローはほとんど死に絶え、いまや絶滅寸前となってしまいました。

大平原の部族

 大平原に暮らすネイティブ・アメリカンの部族としては、まずスー族が挙げられます。この支族にダコタ族、ラコタ族、ナコタ族が存在します。また、漫画「修羅の刻」に出てきたネズ・パース族も、この平原インディアンに分類されます。他、シャイアン、アシニボイン、アラバホ、カイオワ、コマンチといった部族も存在しました。
 彼らは例外なく騎兵で、特にコマンチ族はほぼすべてのメンバーに馬が行き渡っていました。

スー族

 この大平原の先住民と植民者の最初の衝突として知られるのは、ジョン・グラットン中尉の起こした紛争でした。
 ワイオミング州で一頭の迷い牛を、どうもラコタ族の誰かが殺したようです。その所有者だったモルモン教徒は、自分で探しに行くことを躊躇しました。それで届出を受けて、グラットンは三十人の兵士を連れてラコタ族の集落に向かいました。ラコタ族は、穏やかな対応をしましたが、グラットンが族長を捕縛しようとしたために抵抗されました。それでグラットンは部下に発砲を命じましたが、このためにラコタ族は反撃し、たった一人の生き残りを除いて、米軍兵士は全滅しました。
 随分と荒っぽい交渉をしたようです。こうなっては、本当にラコタ族が牛を盗んだのかどうかもわかりません。

 とにかく、これを機に米軍と平原インディアンの対決が始まりました。
 ですが、この時点ではもはや、物量の差がありすぎました。
 例えば、スー戦争は1862年におきましたが、これは南北戦争のまっ最中です。それでも米軍には、西に向ける戦力の余裕があったのです。いえ、どちらかというと、北部がオレゴンとカリフォルニアを味方につけておくための政策の一環だったのでしょう。
 これまた南北戦争中、1864年11月29日には、七百人のコロラド準州民兵軍が、ほとんど女子供しかいないシャイアン、アラバホの宿営地を襲撃し、133人も殺害しています。

 昔の西部劇に登場する「インディアン」は、とにかく野蛮で好戦的でした。しかし現実には、彼らは理由なく戦いを挑むことは少なかったようです。
 1831年にインディアン保護官ジョス・ストリートが陸軍長官ルイス・キャスに宛てた文書は、平原インディアンの態度の選択について、このように書き残しています。

 タリアフェロー少佐はもちろん、少佐に対してスー族がどのような感情をもっているか、またそのまま放置すれば、どのような方向に向かっていくかを、充分報告なさったと思います。
 つい先日、インディアンは私にこんなことを言ってきました。


『1830年の協定は守られていない。我々が家族を養うためにおとなしく狩りをしている間に、土地は侵略され、仲間は殺された。我々は不満を抱いている。
 プレリー・デ・シーンでは長老達にこう言われた。攻撃されても仕返しはするな、ただ我らの大統領に任せておくのだ、そうすれば大統領は正義をもたらしてくれるだろう、と。
 だから、春になってまた水が流れるようになるまで、我々は事を起こさないと伝えておく。その後に、大統領が正義を行わないなら、もはや待つことはない。兄弟の戦死に対して、報復を開始するつもりだ』

 彼らの警告は無駄になりました。
 1890年まで、平原インディアンと当局の争いは続いたのです。

インディアン対策

 しかし、合衆国にも既に、先住民への対策は存在したのです。

 その一つが、優れた城砦でした。
 1874年、バッファローのハンターが集まったテキサスの村を、コマンチ、シャイアン、カイオワ、アラバホの連合軍が襲撃しました。バッファローの乱獲を妨害するためでした。これがアドビウォールズの戦いです。

これ、全部バッファローの頭蓋骨……こんなに殺した……

 この時、入植者側は3名の死者を出しましたが、インディアン側は15名もの死者を出してしまったのです。理由は戦った場所のせいでした。
 アドビ、つまり日干し煉瓦です。しっかりと構築された城砦を攻撃する場合、彼らの弓や小火器では、威力不足でした。そして先住民は、自力で火薬や銃器を製造する技術を持っていないので、こうした防御施設を破壊できるだけの大砲など、攻城兵器を作り出すことができなかったのです。
 この戦いにおける敗北は、高くつきました。襲撃を知った合衆国政府は、報復に乗り出します。平原南部の部族を一掃する作戦を実行に移したのです。このレッドリバーの戦いによって、いくつもの部族が壊滅的な損害を受けました。

 そしてもう一つが、先住民そのものです。
 さすがにこの時代には、白人も先住民の優れた能力を認識しないわけにはいきませんでした。彼らの優れた探知能力と地形や天候についての知識に対抗できるのは、同じインディアンだけだったのです。
 だからこの時期、先住民に対しては離間工作が活発に行われました。白人側に味方するインディアンを作り出して、彼らの能力を活用することで、先住民が先手を取れる状況を潰していったのです。
 ただ、この「インディアン登用」は、差別がついてまわるものでした。先住民が昇進できるのは、下士官に相当する軍曹までとされました。しかも、五年間の有期契約で、除隊後の恩給もありません。要は派遣社員扱いだったのです。

 ですが、こうした「派遣社員」を無視して白人が先行すると、痛い思いをするのが常でした。

リトルビッグホーン

 スー族は、常に合衆国にとって頭痛の種でした。その争いが一際激しくなったのは、合衆国が1868年のララミー条約をひっくり返そうとしたからでした。

 スー族は条約に従って特別居留地に留まっていたのですが、そこにブラックヒルズという場所も含まれていました。ところがそのブラックヒルズ、後から判明したことによると、鉱産資源も豊富で、鉄道開発する上でも便利な立地にあったのです。
 白人側が定めた領土なのに、そこに白人が入り込んできて、横取りしようとするのです。スー族の人々は怒りました。一方、入植者を受け付けないスー族に、合衆国政府はブラックヒルズの引渡しを要求しました。こうなっては対決は避けられませんでした。

 1876年の春、フィリップ・ヘンリー・シェリダン将軍に率いられた米軍は、三つの部隊に分かれてラコタ族とシャイアン族を挟撃する計画をたてました。

ジョージ・アームストロング・カスター中佐
南北戦争でも活躍した軍人だった

 その作戦に従って、アルフレッド・テリー将軍は千人近い兵を連れて出撃しました。そこには、第七騎兵隊を率いるカスター中佐も含まれていました。彼らはクロー族の斥候に道案内させることで、リトルビッグホーン川の畔にあるラコタ族の村に辿り着きました。
 カスターは七百人の手勢を分割しました。村を包囲するために、ベンティーン大尉には百人ほどの斥候を、リノ少佐には騎兵の半分弱を預け、残りは自ら率いて、三方から一気に襲いかかろうとしたのです。
 ですが、リノ隊の接近にラコタ族の戦士が気付いてしまいました。

 女子供が逃げ惑う中、スー族の戦士達はリノ隊に突撃を浴びせました。彼らを川辺に追い詰めて追い落としましたが、完全にトドメを刺す前に、別方面からの攻撃に気付きました。そちらでやはり女子供が捕虜になった、という知らせが耳に届くと、彼らはすぐさま馬首を返しました。
 反対側にいたカスターは、彼らの集中攻撃によって険しい山の麓に追い詰められてしまったのです。

 ……スー族は、川下の違う兵隊に突撃をかけて混乱させた。こちらの兵隊は呆れたことに『スー族よ、後生だ。捕虜にしてくれ』と言ってきた。スー族は一人の兵隊も捕虜にせず、皆殺しにした。数分後には、既に生きている者はいなかった。
(中略)
 兵隊が分割されていなかったら、スー族のほうが多く殺されていただろう。違う兵隊は、スー族に殺される前に、五度勇敢に抵抗してきた。

 これは、当時の戦いに参戦したスー族のレッド・ホースの証言(1893)です。

 スー族は、捕虜を取りませんでした。それも当然です。
 1868年11月27日、カスターはワシタ川に居を構えていたシャイアン族のブラック・ケトルを襲い、女子供も見境なく虐殺しました。このブラック・ケトルは和平派で、合衆国と戦う意志はなく、ティピーには白旗を掲げていました。
 しかし、無抵抗の人々を一方的に殺害したことで、カスターは「インディアンに勝利した」とされ、シャーマン将軍ら上官からは賞賛の言葉を受けています。
 こうした過去がある相手の降伏を受け入れるなど、あり得ないことでした。

リトルビッグホーンの戦い

 スー族は、組織的に作戦をたてて、戦略的に行動したわけではありません。
 ただ、彼ら一人ひとりが生まれながらの狩人でした。長年の訓練と生活によって、身についたところを実践しているだけなのです。米軍を混乱させるために、一部のスー族は、その場で死んだ米軍兵士の服を奪い、身につけたりもしました。こうしたことで、米軍はますます混乱しました。
 結局、一時間ほどの戦闘で、カスター隊は全滅したのです。カスター中佐が敵を過小評価せず、戦力の分散という愚を犯さなければ、結果は違っていたでしょう。

カスターの墓

 これが歴史に残るリトルビッグホーンの戦いでした。
 この戦いは、後に知られるようになる平原インディアンの英雄、シッティング・ブルと、クレイジー・ホースが参加していたことでも有名です。この後、十数年にわたって大平原の先住民は、最後の抵抗を続けることになるのです。

ちょっとした余談

 ところで余談ですが、現実のインディアンは「ハウハウ」なんて言いません。
 音のしないモカシンを履いて接近し、奇襲の有利がある間だけ戦い、不利になったら即撤退するのが彼らの戦い方です。なのにわざわざ襲撃する時に、そんな掛け声なんか出すでしょうか?
 この「ハウハウ」の起源は、実は白人らしいのです。なんでもお金でやり取りする白人は、“How much?” と尋ねることが多く、つまりいつでも「ハウ」と言っていたのです。それで先住民は「白人の挨拶はハウなのか」と思い込んだ、という話があります。

 もう一つ。
 先に漫画「修羅の刻」にネズ・パース族が出てきたと書きましたが、こちらの考証はかなりハチャメチャです。
 現実のネズ・パース戦争は1877年の初夏から秋にかけて戦われましたが、ネズ・パース族がいたのはオレゴンとアイダホの州境付近で、つまり合衆国の北西端です。ここから長い撤退戦を繰り広げて、アイダホとモンタナの州境をなぞるように移動し、一部ワイオミング州の北部を掠めながら、最後はモンタナ州の北部で降伏を余儀なくされました。
 なのに作中の絵柄を見ると典型的な荒涼とした「西部」です。ネズ・パースも騎兵を要する大平原の部族ではありましたが、テキサスにほど近いコマンチ族などとは違い、彼らがいた場所、また転戦した場所の多くは山岳や森林地帯で、最後の一ヶ月余りだけがモンタナの平原部での戦いでした。もちろん、そこもほとんどが草原だったはずです。
 また、無理やりワイアット・アープを登場させていますが、この時期彼はずっと南のカンザス州にいたはずで、出会う余地がありません。
 恐らく、作者の川原正敏氏がこの部族を選んだのは、アメリカ北西部の部族にあった「クウ」の習慣ゆえでしょう。自分の手、またはクウ棒という道具で、直接敵に触れることを勇気の証とする、一種の儀礼戦闘なのですが、まぁ、その「修羅の刻」は格闘漫画ですので……。

リトルビッグホーン古戦場記念碑

 リトルビッグホーン古戦場には、記念碑が建てられています。
 これはずっとカスター・メモリアルと呼ばれていました。合衆国のために戦ったカスター隊の不運を悲しむ場所だった、ということです。これがリトルビッグホーンの名に置き換えられたのは、ごく最近のことです。

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