パクス・アメリカーナ

アメリカ合衆国
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外にあふれ出したエネルギー

 先住民勢力を壊滅させたアメリカは、そのエネルギーを向ける先を求めていました。更なるフロンティアが必要とされたのです。
 一方でモンロー主義(孤立主義)により、特に欧州の政治状況には関与しない方針は変わらなかったので、基本的にはその目はその他の地域に向けられ、また経済的進出が中心となりました。

 1889年にはパン・アメリカ会議を開催し、アメリカの海軍力を背景にラテンアメリカの国々に圧力をかけ(棍棒外交)、

棍棒外交を揶揄した当時の漫画

 1898年にはアメリカ人がハワイ王国で起こしたクーデターを、事後承認して併合を許可し、

ハワイ併合を果たしたサンフォード・ドール

 またキューバの独立に便乗して米西戦争を惹き起こしました。
 この時には、マスコミを使ったプロパガンダによって、政府はスペインへの悪感情を大いに煽りました。大衆は支配者層に利用されるばかりでした。

 プエルトリコ、グアム、フィリピン……
 次々にアメリカ合衆国の植民地が広がっていきました。しかし、元はといえば、アメリカ合衆国自体が植民地だった気もします。

 また、パナマ運河の建設権を手に入れ、二万人以上の犠牲を払ってこれを完成させ、永久租借権を握って東西の物流を押さえました。

パナマ運河

 石油や電力を利用した第二次産業革命が起きたこの頃、多大な資源を自国内に持つアメリカは、一気にイギリスを抜き去って世界一の工業国になりあがりました。一方、ヨーロッパは人口の急増に耐えられず、多くの移民がアメリカに流れ込んでくるようになりました。彼らは社会の下層に置かれ、低賃金で働く単純労働者になりました。

二度の世界大戦

 こうした流れは、第一次世界大戦を通じて、更に強化されました。ヨーロッパの国々は武器や車両を必要としており、アメリカはそれらを製造して販売することで、巨額の富を得たのです。
 最初はモンロー主義のために参戦を渋っていましたが、結局は戦争に参加し、戦勝国側に立つことで大いに国威を高めました。

 一次大戦後はアメリカは世界の工場として繁栄をほしいままにしましたが、一方で農村はというと、大戦中の食糧増産によって農地が疲弊したために、南部の小農家が没落して貧困化が進みました。
 また、ユダヤ人やカトリック系移民、それに日系人など、新参者への差別と嫌悪も広がりました。黒人の反乱が多発したために、人種差別団体が公然と活動するようになりました。

 そんな中、突然の株価暴落がアメリカを、そして世界を揺るがしました。1929年10月24日の「暗黒の木曜日」……いわゆる世界恐慌の始まりです。
 資本家は労働者を一斉解雇し、没落した農民は西部に向かうも、受け入れてくれる場所はどこにもなく、アメリカは大混乱に陥りました。先の大戦の恩給を求めて退役軍人がデモを起こすと、ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者の扇動として、武力で鎮圧しました。
 フランクリン・ルーズベルトはニューディール政策によって、市場に積極的に介入し、公共事業を興して雇用を創出、国内経済の安定を図りました。

フランクリン・ルーズベルト

 しかし、世界的な経済危機は終わることがなく、第二次世界大戦が勃発します。
 アドルフ・ヒトラーはポーランドに侵攻し、これにヨーロッパ各国が反応、短期間のうちにナチス・ドイツがヨーロッパの広い範囲を制圧しました。この状況でもアメリカは参戦しかねていたのですが、ドイツと同盟していた日本が経済制裁の悪影響を脱するために東南アジアに進出したのをきっかけに強硬な態度で交渉に臨み、結果、日本は真珠湾攻撃に踏み切りました。
 これによって二次大戦に参加したアメリカは、西は日本を、東はドイツを打ち負かして、またもや世界の強国としての地位を確かなものにしました。

長崎市を吹き飛ばした原子爆弾

 なお、この時、開発製造された原子爆弾は、南西部インディアンの保留地から連邦政府が無断で採掘したウラニウムによって作られ、アパッチ族、ショショーニー族、パイユートの保留地で爆破実験をしたものです。その汚染物質はプエブロ族の保留地に格納しました。
 戦後は核開発を更に強化し、太平洋での爆破実験を繰り返しました。第五福竜丸が巻き込まれたビキニ環礁での水爆実験は有名です。

 戦後は細菌兵器の開発にも関心を示し、日本の731部隊が中国大陸で積み重ねた生体実験のデータも手に入れました。国内で民間人の生活する領域にセラチア菌を散布する実験も行っており、そのために死者も出しています。
 また、戦後には南米各国においても、同じような生体実験を繰り返しました。

矛盾と綻び

 東西で世界をソ連と二分する大国となったアメリカは、冷戦を繰り広げるようになりました。軍拡競争から宇宙開発まで、あらゆる分野でソ連と競り合ったのです。

 そんな中、帝国主義時代の名残が一つずつ、綻びていきました。

 1960年代に入ると、アフリカなどの植民地で、一斉に多くの国々が独立していきました。「アメリカの裏庭」とされたキューバでも革命が起こり、合衆国の介入を退けたカストロは、社会主義化を推進しました。このキューバ危機は第三次世界大戦を引き起こす手前までいきましたが、それは回避されました。ただ、大国が一方的に小国を支配し、軍事介入して済ませる時代は、終わりつつありました。

 アフリカで黒人国家が次々産声をあげる中、1963年には南北戦争の奴隷解放宣言から百年経ったこともあって、アフリカ系アメリカ人による公民権運動が活発になりました。二次大戦中も、黒人兵士は差別を受けながらも活躍し、合衆国の勝利に貢献してきました。にもかかわらず、差別はなくならなかったのです。

 事件の多くは、南部で起きました。

 口火を切ったのは、モントゴメリーにおけるバス乗車拒否運動です。
 1955年12月1日、黒人女性ローザ・パークスは、バスの中で指定された黒人専用席に座っていました。白人用の席は埋まっており、後からやってきた白人が席を譲るよう要求しましたが、彼女は拒否しました。運転手には、席の白人用、黒人用の指定を変更する権限がありました。そこでローザの席を白人指定席にして、彼女に席を譲るよう言いましたが、それでも彼女は拒みました。すると彼女は、人種分離法違反で逮捕、投獄され、罰金刑を受けることになったのです。
 キング牧師らがこの件をとりあげて、バス乗車を拒否しようと呼びかけると、大勢の黒人はもちろんのこと、その他の有色人種、一部の白人までこれに同調しました。このボイコットは一年以上継続されました。
 一方、ローザは市条例違反の判決について違憲であるとして、裁判に訴えました。翌年、最高裁は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別は禁止されることになりました。

リトルロック高校

 続いて起きたのは、リトルロック高校事件でした。
 既に1954年の時点で、白人と黒人の学校を区別する分離教育が違憲になっていました。にもかかわらず、アーカンソー州知事オーヴァル・フォーバスは、白人票欲しさに州兵を派遣して黒人生徒の登校を妨害しました。地元の白人もこれを支持し、高校を取り囲んで黒人学生の登校に反対しました。

この件について説明するオーヴァル・フォーバス

 リトルロック市長が法律遵守を知事に進言しましたが、知事はこれを拒否。それで市長はアイゼンハワー大統領に解決を訴えましたが、当初はスルーして済ませようとしました。しかし、マスコミで報道されて話が大きくなってくると無視できず、ついに軍に介入させて黒人生徒の登校を保護しました。
 ですが校内でも彼ら黒人へのイジメが多発しました。そのため中退する生徒も出てきました。
 結局、オーヴァル・フォーバスは白人の支持を得て、12年間も州知事を務めました。アーカンソー州すべての高校で人種差別がなくなるのは1972年になってからのことです。

登校には兵士が必要だった

 1963年には、ワシントン大行進と呼ばれるデモ活動が行われました。
 人種差別撤廃を求め、キング牧師ら20万人以上が参加しました。これに対して時のケネディ政権は肯定的な対応を示し、人種差別に関する法律の撤廃に動きました。この年の11月にケネディ大統領が暗殺されると、リンドン・ジョンソン副大統領が役目を引き継ぎ、翌年、公民権法の制定に至ったのです。
 また、これに連動するように、ネイティブ・アメリカンの人々も行動を起こしました。例えば1969年に、全部族インディアンを名乗る先住民が、放置されたアルカトラズ島を占拠しました。フォート・ララミー条約には、連邦政府が所有する土地で、放棄されたものについては先住民が取り戻すことができるとする条文があったのです。彼らはそれを実行に移し、自分達の権利を訴えました。

キング牧師

 しかし、すべてが解決したわけではありません。
 1968年に、キング牧師暗殺されました。そして社会には、相変わらず差別が居残りました。社会が切り替わっていかないことに絶望した一部の人達は、より過激な、暴力的で非合法な手段による変革を望むようになりました。
 今なお、人種・民族間の憎悪はなくなってはいないのです。

アメリカとは何か?

 泥沼のベトナム戦争を経ても、アメリカは相変わらず、世界各地の紛争に介入し続けました。それはソ連崩壊後においても変わりませんでした。湾岸戦争はうまくいった介入でしたが、ソマリアへの介入は、クリントン政権にとって拭いがたい汚辱となりました。
 それでも20世紀末のアメリカは、財政赤字と貿易赤字を解消することに成功し、好景気にわくようになっていました。この時点でアメリカは、世界唯一の超大国であり、「世界の警察」でもあったのです。

 しかし、21世紀はじめに、あの9.11……アメリカ同時多発テロ事件が起きました。
 抑圧された世界の片隅から、憎悪が届けられるようになったのです。
 一方で、アメリカが存在しなければ、世界はもっと混乱していたかもしれません。

 最後に、いくつかの演説を簡単に辿ってみましょう。
 現代のアメリカ人にとって、自国の歴史は、どのようなものと認識されているのでしょうか?

 今、私達が語り合っている間にも、私達を分裂させようとする人達がいます。巧みに情報操作する人達、中傷広告をばらまく人達です。彼らは『何でもあり』の駆け引きを仕掛けます。こういう人達に対して、私は今夜、こう言いたいと思います。リベラルなアメリカも保守的なアメリカもない、あるのはアメリカ合衆国だ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラテン系のアメリカもアジア系のアメリカもない、あるのはアメリカ合衆国だ。

(中略)

 私達は一つの国民です。誰もが星条旗に対し忠誠を誓い、私達全員が合衆国を守っているのです。

2004年7月27日 バラク・オバマ ジョン・ケリー応援演説より
バラク・オバマ

 221年前、今でも通りの向こうに建っている建物に一組の男達が集まり、こうした簡単な言葉で、民主主義という、およそ実現しそうにないアメリカの実験を始めました。暴政と迫害を逃れるために大洋を渡ってきた農民、学者、政治家、愛国者達が、ついに独立宣言を現実のものとしたのです。それは1787年の春中ずっと続けられたフィラデルフィアの会議でのことでした。
 彼らが作り出した文書は最終的に署名に至りましたが、結局のところ、未完成のものでした。
奴隷制という、この国の原罪のシミがついていたからです。この問題によって植民地は分断され、懐疑は膠着状態に陥り、結果として建国の父達は奴隷貿易を許容する選択をせざるを得ませんでした。

2008年3月18日 バラク・オバマ 大統領選挙中の演説より
ジョージ・W・ブッシュ

 今日、私達の同胞が、私達の生活様式と自由そのものが、一連の意図的で破壊的なテロ行為によって攻撃されました。犠牲となったのは飛行機の中やオフィスにいた人達です。

(中略)

 こうした大量殺戮行為は、私達の国家を混乱と恐怖に陥らせ、後退させようとしてなされたものです。しかし、彼らの意図は失敗に終わりました。私達の国は強いからです。
 偉大な国民は、偉大な国を守るために動き出しました。テロ行為は我が国でもっとも大きなビルの土台を揺るがすことはできても、アメリカの土台には触れることすらできません。鉄骨を砕くことはできても、アメリカの決意の鉄骨をへこませることはできません。アメリカが攻撃の目標となったのは、私達が世界における自由と機会をもっとも明るく指し示しているからです。今日、我が国は悪を目の当たりにしました……人間性の最悪の部分を……そして私達は、それに対してアメリカの最良の部分で対応しました……

(中略)

 この邪悪な行為の背後にいる者達に対する捜索は既に始まっています。私は情報機関や法執行機関に首謀者達を見つけ出し、裁きを受けさせるために全力を尽くすよう指示しました。これらの行為を犯したテロリスト達だけでなく、彼らを匿う者達に対しても、厳しく対処します。

(中略)

 アメリカはこれまでも敵を退けてきましたし、今回もそうします。アメリカ国民は、この日のことを決して忘れません。私達は自由を守るために、そして世界の善と正義を守るために、前進します。

2001年9月11日 ジョージ・W・ブッシュ 9.11テロ直後の演説より

 ここまで歴史をみてきた方なら、わかることでしょう。
 ジョージ・ワシントンは先住民を虐殺し、その根絶を望んでいました。と同時に、三百人もの黒人を抱える農場主でもありました。
 トマス・ジェファーソンは先住民を「高貴な野蛮人」と呼びながら、彼らの強制移住と同化政策を方針として定めました。
 エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発しましたが、同時に黒人が代議士になったり、選挙で投票したりすることを望んではいませんでした。そしてもちろん、インディアンの駆除には前向きでした。
 その後も、黒人への差別は百年続いたのです。

 実はオバマは、自分の選挙演説において、人種問題を口にすることを避けてきました。しかし、肌の色はごまかせません。ついに慎重に立場を選びながら、それを語らざるを得なくなりました。自身の選挙において、はじめて黒人差別について述べたのが、上の演説です。
 建国の父達をけなすわけにはいきません。リンカーンは奴隷解放を実現した偉大な人物であると、そういう文脈でしか、語りようがないのです。

 最後にジョージ・W・ブッシュの演説も引用しました。
 これを耳にしたアメリカ人には、好ましく聞こえる内容だと思ったから、彼はこれを語ったのです。もちろん、テロ行為を肯定することなど、あり得ません。
 ですが、アメリカを憎む人達が耳にしたら、アメリカの中にいながら、疎外されていた人々が聞いたら、どう思うでしょうか?

 たった百年前まで、虐殺が繰り広げられていた場所。
 たった五十年前まで、公然と人種差別がまかり通っていた街。
 原爆実験の汚染物質を先住民の保留地に押し付けた国。

 だからこそ「私達は一つの国民」だと宣言せずにはいられないのです。それを強調すればするほど、歴史に刻まれた傷跡は深い陰翳を落とすのですが。

 アメリカの「理想」が実現するのかどうか。
 それはこれからの歴史において、やがて明らかとなるでしょう。

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