クラシュの達人
ヒヴァは街全体が観光地なのですが、その中にまた観光ポイントがポツポツ散在しています。
そんな中に、パフラヴァン・マフムード廟という霊廟があります。
パフラヴァン、即ち「強者」の意です。
彼は、ウズベキスタンの伝統武術クラシュの名手でした。
クラシュとは、どんな武術でしょうか? 平たく言うと「柔道」です。投げ技だけで勝負をつけるウズベク相撲、といえばいいでしょうか。寝技、絞め技はないようです。
競技に望む際には、トゥンという民族衣装を着用するか、ヤフタクという柔道着みたいな服を着ることになっています。
大きく分けて、クラシュは二通り
地域によって競技のルールは異なっています。具体的には、タシケントより東側はフェルガナ風、サマルカンドより西はブハラ風の戦い方をします。
フェルガナ・クラシュは、柔道より相撲に近いかもしれません。ベルバグリ・クラシュともいいますが、これは「帯のあるクラシュ」という意味で、両手で相手の帯に手をかけた状態で試合を始めます。
これに近い形式のクラシュは、カザフスタンやアゼルバイジャン、ロシアにもみられます。
これに対して、ブハラ・クラシュは、より柔道に近いです。ミッリー・クラシュともいいますが、これは「民族的クラシュ」という意味で、組み合う前の、自由な組み手争いのできる投げあいです。といっても、日本の柔道とは少し違います。手で足を刈る「双手刈」はルール上、許されていませんし、背中をつける「巴投げ」も負けになります。
周辺各国のクラシュと差別化できるのもあって、ウズベキスタン政府が公認するクラシュもこちらです。例によって、どこにでもしゃしゃり出てくるカリモフ大統領は、ここでも国際クラシュ協会の名誉会長になりました。当然のように「世界大会」も1998年から開催しています。
ウズベキスタンの柔道メダリスト達……と「賞金稼ぎ」
クラシュは国民的な競技ですが、特にこれが盛んな地域が、西側の地方です。
ウズベキスタンの柔道選手には、しばしばオリンピックでメダルを獲る人が出てきています。割と最近ですと、2016年リオデジャネイロではディヨルベク・ウロズボエフ、リショド・ソビロフがそれぞれ銅メダルを取得しています。特にリショド・ソビロフは、2012年ロンドンでも、2008年北京でも、それぞれメダルを手にしています。
こうした有力選手の出身地は、西側であることが多いです。リショド・ソビロフもブハラの出身です。
人口三千万人は決して小さくありませんが、だとしても世界には他にいくらでも大国があるのに、どうして継続してメダルを取れるのか。そこには、クラシュ人口の層の厚さがあります。
西側地方では、男児の教育と遊びの中に、当たり前のようにクラシュがあるといいます。男らしい男になるために、クラシュを通して成長するというのが当たり前なのです。
そんなクラシュは、人々の生活の中にも溶け込んでいます。ナウルーズの祝祭に伴って、マハッラ対抗戦なんかもあったりします。また、割礼や婚礼といった祝い事の際にも、クラシュが催されることがあります。これをトイ・クラシュといいます。
この手の試合には、勝者に祝儀が与えられます。ものによっては、かなりの金額の物が景品になることもあるので、それを目当てに戦う選手もいるようです。この手の人達は、オリンピックを目指せるくらいの力量があっても、稼げる試合しかしないと言われています。
つまり、私達がオリンピックで目にするウズベキスタンの柔道選手は、クラシュの中で鍛えられた人達で、しかもウズベク全体のクラシュのほんの一部でしかない、ということです。
パフラヴァン・マフムード
パフラヴァン・マフムードは、ただの格闘家ではありませんでした。政治家で詩人で哲学者で建築家で、しかも毛皮加工業者と、まさに万能の人物でした。彼が生きた時代は、1247~1326年の間ですから、ちょうどチャガタイ・ハン国がトルキスタンを支配していた時代ですが、ホラズム地方の領有はキプチャク・ハン国に帰属していました。左翼のオルダ・ウルス、ジュチの十三男トカ・テムルの支配地です。
フビライとアリクブケの後継争いもあって、この間のキプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国は、内紛が絶えませんでした。そんな時代をパフラヴァン・マフムードは生きたのです。

なお、この写真は確かムハンマド・ラヒム・ハーンの柩で、パフラヴァン・マフムードのものではありません。パフラヴァン・マフムードの墓所も見たのですが、人が多すぎたし、真剣に祈っている人もいて、写真を撮影しにくかったのです……無理やりでも撮っておけばよかったと後悔しています。