ホラズム地方の目玉
ウズベキスタンは、地理的に三つの地方に分けることができると言えるでしょう。
標高が高く、パミール高原の水源地にも近いフェルガナ地方。古来より貿易の中継点として最も栄えたサマルカンドやブハラ。そして最後の一つが、アラル海にほど近いホラズム地方です。
ホラズム地方は、先の二つと違って、地理的には隔離されています。ウズベキスタン中央を占めるキジルクム砂漠が横たわっているからです。そのせいか、歴史的にも東方とは連動していない部分が多いです。
中央アジアの例に漏れず、ホラズム地方も、破壊と再生の連続でした。この地方の中心都市はウルゲンチですが、今の街並みには、歴史を思わせるものはほとんどありません。ただ、「チンギス・ハンが全部壊したから……」というのは理由の一部で、本当の理由は自然環境の変化によります。
アムダリヤ川の流れが北側に移ってしまったのです。そのせいで、ウルゲンチは放棄されました。この、昔のウルゲンチのことをクフナ・ウルゲンチと言います。遺跡は残されていますし、実は世界遺産にもなっているのですが、ウズベキスタン領内にはありません。現在、トルクメニスタンの領内にありますので、別途トルクメニスタンに入国する手立てを用意しておかないと、見物できません。
よって、ホラズム地方の歴史を堪能しようにも、味わえるのは、割と新しいヒヴァの遺跡(イチャン・カラ)のみ、ということになります。
ティムール帝国以後に成立した三ハン国のうち、一番西の国をヒヴァ・ハン国なんて呼んだりしますが、実は最初はウルゲンチ・ハン国だったと言えます。
ただ、じゃあそれ以前の歴史はないのかというと、そうでもないらしく、古代からこの地の湧水を頼りにイラン系住民が暮らしていたそうです。今でもヒヴァの中心、イチャン・カラから湧き水が得られているとのことです。
どこでも見所、イチャン・カラは大きくはない
ともあれ、ヒヴァの観光は、何をどこまで見るかによって、滞在日数も変わってくるかと思います。イチャン・カラを中心に市内だけを見物するのなら、丸一日あれば足ります。但し、周辺の観光ポイントも含めるとなると、どれもこれもアクセスが大変に悪いです。
見所に迷うことはないでしょう。
ヒヴァを見物する場合、誰でも見える高さに城壁があって、その内側を彷徨い歩いていれば、どこもかしこも観光ポイントです。古い街並みそれ自体がムードを楽しめるものなので、特にどこそこを見に行きましょう、という必要がないのです。
東西を貫く大通りの西側にはカルタ・ミナルがありますし、ちょっと奥にはいればすぐイスラム・ホジャ・メドレセと近くのミナレットに行けます。ミナレットには登れますので、そこからヒヴァの市街地を見下ろしてもいいでしょう。

ジュマ・モスクの木の柱……

タシュ・ハウリ宮殿の内側……

ただただ、ほっつき歩くだけで見所に出遭えます。
考える必要がありません。
かける時間としては、正直丸二日は長いと思います。
例えば、タシケントから飛行機でウルゲンチまで飛んで、そこからヒヴァに入ったとします。午後半日あるのなら、それから即座に観光して、翌日の昼まで見て、午後には別方面に移動する、というくらいでちょうどいいのではないかと考えられます。ちょっと慌しいですが。
でも、三日もかけると、見る場所が本当になくなってしまいます。名残惜しいながらも、サッと引き揚げるのがいいかと思います。
旅程と相談、どこまで見るか
但し、イチャン・カラ以外を見るとなると、ちょっとした大仕事になります。
ホラズム地方のあちこちに残るカラ、つまり城砦の跡ですが、これらを見てまわる場合には、素直に車を貸切にして、一日かけて見物するべきでしょう。
また、カラカルパクスタン共和国の首都であるヌクスまで行こうとなれば、やはりタクシーを貸切にして片道二時間ほど。そこからまた、後退したアラル海を見に行くということになりますので、それなりの時間がかかります。日帰りだと、結構なハードスケジュールになるでしょう。
もしこの両方を味わうつもりなら、それぞれウルゲンチとヌクスに一泊するつもりで、なんとかギリギリ移動時間込みで四日といったところでしょうか。
これにクフナ・ウルゲンチの見物まで、となるとちょっと先が見えません。
本当のところ、ホラズム地方の歴史を味わいたいなら、クフナ・ウルゲンチこそがポイントなのですが。
移動手段を考える
ヒヴァ自体のアクセスの悪さが、とにかく大問題です。
タシケント発着の旅なら、最低でも片道は飛行機にしなくては始まりません。車窓から砂漠を見る気なんかないよ、という場合でも、帰りの飛行機もタシケント行きがほとんどで、そこからサマルカンド方面などに飛ぶしかありません。
夜行列車でタシケントに向かう場合、午後3時前に出発して、到着は朝の10時です。ヒヴァを最後に見て、それからタシケントをちょっと歩くだけにする、というのなら、まぁなんとかなりますが、もしその当日に帰国するつもりなら、ほとんどタシケント市内は見物できないでしょう。市場も朝早くないと、あまり堪能できません。休憩がてら、どこかで一泊して、翌日の午後に帰国便に乗れる状況なら、そういう選択もありだと思いますが。
また、そもそもヒヴァは、飛行機が発着しません。全部ウルゲンチです。
ウルゲンチまでタクシーで40分ほどかかると思っておいてください。この辺を見誤ると、大事な列車や飛行機の時間に間に合わない、なんて悲劇も起き得ます。
ヒヴァの歴史をおさらい
一応、この地域の歴史を簡単におさらいすると……
大昔から人は居住していたようですが、ここが歴史の主役になるのは、なんといってもホラズム・シャー朝の時代からです。もともとはセルジューク・トルコのホラズム地方の総督として赴任したマムルークが、次第に力をつけていきました。
三代アトスズの時代に自立の傾向は強まり、六代テキシュの時代には、周辺各国を飲み込む大国に成長します。その時代までは、クフナ・ウルゲンチがホラズム・シャー朝の中心地でした。
ですが、七代アラーウッディーン・ムハンマドの時代に、サマルカンドに遷都してしまいます。その直後にモンゴル軍の蹂躙を受けます。
その後は、この地域はキプチャク・ハン国、つまりジュチ・ウルスの支配下に収まります。
一時はティムールの征服を受けますが、やがてそれが内乱で支配領域を縮小していくと、やはりジュチ・ウルスが南下してきます。最終的にシャイバーニー朝がティムール帝国を滅ぼすと、イルバルス率いる別のジュチ・ウルスの集団がこの地を掌握。
ですがその後、川の流れが変わって人々は北方に移住します。これがヒヴァのはじまりです。
ヒヴァは、18世紀にはブハラ・ハン国の征服を受け、一度は破壊されました。また、19世紀にはロシア帝国の侵略を受けて滅ぼされます。
なのに、こんな時代のギリギリまで、派手な建造物を作っていました。カルタ・ミナルは「よーし、一番でっかいミナレットを作ってやるぞー」とばかり、時のムハンマド・アミン・ハンが建設を命じたものですが、ハン自身が戦死したために1855年に建造中止となったものです。滅亡のたった二十年ほど前の話ですから、少し呆れてしまいます。
ヒヴァの主要産業は、その美しさとは裏腹に、奴隷貿易でした。ロシア人を誘拐しては売り払っていたのです。これではロシア帝国も征服せざるを得ませんよね。ヒヴァ・ハン国滅亡時には、三千人ものロシア人奴隷がいたそうです。
ヒヴァは、歴史の深さを追い求める方には少し物足りませんが、イスラム世界の美を堪能したい方になら、きっと満足できる目的地となるでしょう。