インカの起源とは?
せっかくペルー旅行に行くのなら、インカの歴史について、多少は知っておいたほうがいいかもしれません。
別にペルーの歴史がインカしかないわけではないのですが、詳細なストーリーが残されているのがインカだけということで、あとは考古学の領域になってしまっているからです。というのも、中南米はマヤ文明を除くと、基本的に文字のない文明ばかりだからです。
ただ、インカ帝国も、何もないところにいきなりポロッと出現したわけではありません。
先行する南米の文明の技術を引き継いで生まれたのがクスコであり、そこから広がった大帝国でした。
インカの建国神話には、二通りのシナリオがあります。
一つは、パカリクタンボの洞窟から、四組の夫婦が現れて、クスコを目指したというもの。もう一つが、マンコ・カパックとその妹にして妻、ママ・オクリョがティティカカ湖から北を目指して、やはりクスコで建国したというストーリーです。

言語、遺伝情報、クロニスタ(年代記著者)の証言などを重ね合わせていくと、どうも前者の物語は、パチャクティの時代以降の後付けのものと考えるのがよさそうです。以下、理由を挙げていきましょう。
次々に言語を乗り換えた集団
スペイン人の征服時、インカで話されていた言語はケチュア語でした。ゆえにスペイン人は誤解しました。インカの人々の言語はケチュア語である、と。そして、つい最近まで、ケチュア語はクスコの谷から広まった言語である、とまで勘違いしていたのです。
それが間違いであることは、現在では明らかになっています。ケチュア語は、エクアドルなど北方の言語で、それをインカの人々が導入しただけでした。原住民のクロニスタ(記録者)であるグァマン・ポマも証言しています。

「このインカ、ワイナ・カパックは、チンチャイスーユの言葉がすべての場所で話されるよう命じたとされている。その言語は普通、共通ケチュア語、もしくはクスコのケチュア語と呼ばれている」
チンチャイスーユは、ペルーからみて北方、エクアドルのキトなどを含む、インカ帝国の北部地域のことを示す言葉です。この地域は、11代皇帝ワイナ・カパックが征服した領域で、帝国に編入されたところとしては、一番の新顔でもありました。
要するに、征服したばかりの土地の言葉を輸入したのです。
普通、逆じゃないかと思いますよね。
征服した側が、征服された側に言語を覚えさせる。或いは、南ロシアを征服したモンゴル軍みたいに圧倒的少数派が支配者になった場合、世代を重ねるごとに子孫が現地化して、やがてはテュルク語を使うようになる、とか……そういうケースならまだ、わかるかと思いますが。
ですが、インカには固有の事情があって、あえて新たな征服地の言語を使わせることになったのです。これはまた、インカの滅亡前夜の話をする時に説明すべき内容です。
では、ケチュア語以前には何を話していたのか?
アイマラ語です。9代皇帝パチャクティは、チャンカ族に勝利したことを記念して、アイマラ語の詩を残しています。しかし、これも実は、インカ固有の言語ではなかったようなのです。
なぜなら、いくつかの単語が、アイマラ語では説明できないからです。
まず、「インカ」という言葉、それそのもの。太陽神を意味する「インティ」。直訳すれば「基礎」「大いなる」と読める「マンコ」「カパック」などなど。
重要な固有名詞の数々が、アイマラ語起源ではないのです。すると、これらの言葉はどこから来たのか。
一説には、19世紀に死語になったプキーナ語が元になっていると言われています。
南方のティワナク文明の生き残りか
遺伝情報についても、これは日本人の研究があります。
南米の先住民の遺伝情報には、多様性がありません。限られた集団がベーリンジア陸橋を渡ってアメリカ大陸に入ったためです。しかし、南米の環境は高低差が激しく、小さな集団が分断されて暮らさざるを得ない場所になりました。よって、集団間の遺伝的差異はハッキリ読み取れるという特徴があります。
篠田謙一は、サクサイワマンに遺された人骨と、現代のティティカカ湖周辺に暮らす人々のミトコンドリアDNAを比較し、相関性を調べました。そこには明らかな関連性があったということです。
要するに、インカの集団は、南方起源である可能性が高いのです。
更に、クロニスタのグァマン・ポマは、またもや貴重な証言をしています。
「ティティカカ湖からやってきたインカ族は、後にパカリクタンボに現れ、最終的にクスコに入った。コリャオに残ったインカ族は、プキーナ・コリャと呼ばれたが、彼らはクスコに向かった人々についていかなかったために、価値のない人々だとみなされた。そのため彼らは、黄金の代わりに、布の耳飾りをつけることを許された」
インカ貴族は、黄金の耳飾りをつける習慣があります。これはとても重要なことだったらしく、何かの事故などで耳が裂け、耳飾りをつけられなくなると、貴族の地位も失ったといいます。
ティティカカ湖周辺に居残ったインカ族は、同族だから耳飾りをつけることは許されたものの、布製のものに限るとされました。一緒にクスコに向かって、建国の苦労をともにした仲間とは違う、ということなのでしょう。

なお、ティティカカ湖周辺では、十四世紀頃にインカ様式の土器が発見されているのですが、インカが帝国として大概拡張を始めたのは、十五世紀前半、パチャクティの時代以降で、それまではクスコの谷の周辺、およそ四十キロ四方が勢力範囲であったに過ぎませんでした。
つまり、これらの土器は、地元で作られていた可能性が高いです。
こうした証拠から判断すると、インカの人々は、南方からやってきた旧ティワナク文明の生き残りと考えるのがよさそうです。
最初は小さな地方政権だった?
また、インカ建国当時においては、創始者達はさほどの権威を身に帯びていなかった可能性もあります。
カパック、という言葉は「大いなる」とも読めますが、実は「将軍」の意味合いもあるそうです。軍事的指揮官ということですね。この辺、古代メソポタミアでも「ル・ガル」、つまり「大きな男」というのが「王」=軍事的指揮官、という意味でしたから、似たような文脈と捉えることはできます。
してみると、ティワナク文明の知識や技術を持った集団が、その時代の、せいぜい一方面軍に率いられて北方に逃れた、というようなシナリオも考えられます。

二代目のインカ王も、シンチ・ロカ。ロカ、というのは、地方行政官の称号です。
また、多くの歴代インカの名前も、王というより行政官を思わせるものが多いです。リョケ・ユパンキ……直訳すると、左利きの書記官、です。
堂々とインカを名乗ったのは六代インカ・ロカ、そして大胆にも創造神の名前を名乗ったのが八代ビラコチャ。こうしてみると、遠慮なく「俺はえらいんだぞ」とインカ王が威張りだしたのは、割と後になってからではないかということが言えますね。


クスコの谷にインカ族が居を構えたのは、専門的には後期中間期と呼ばれる混乱の時代でした。多くの部族が山頂に陣取って、僅かなリャマやアルパカに頼って貧しい生活を送っていた頃です。
そんな中、インカの人々は、明確なビジョンと優れた技術で、温暖な谷底を農地に作り変え、その生産力で大きな人口を養い、やがて周辺に覇を唱えるに至ったのです。
