9代皇帝パチャクティ
インカの歴史を彩る英雄を一人選べといわれたら、多くの人がパチャクティ・インカ・ユパンキの名を挙げることでしょう。彼の活躍がなければ、インカはクスコに割拠する地方政権で終わっていたのではないか、と考える人もいます。

伝承によれば、彼はまさしく英雄でした。
八代皇帝ビラコチャは長年クスコを治めてきましたが、今ではもう、無気力な王に成り果てていました。後継者にはウルコ王子が指名されていましたが、彼はアクリャワシ(太陽の乙女の家)に入り浸って、美女を漁るのに忙しく、戦争にも政治にも興味を持ちませんでした。
そんな時、クスコに危機が迫ります。1438年、チャンカ族の大軍が、クスコを滅ぼすために攻め込んできたのです。しかし、ビラコチャもウルコも何もできず、逃げ出すしかありませんでした。
インカ帝国存亡の時。立ち上がったのが、別の王子だったクシ・ユパンキです。彼は絶望的な状況で奮戦し、チャンカ族を打ち破りました。こうして彼は、人々に推戴されて、新たなインカのリーダーになりました。
このような英雄的な人物をいただいたインカ族が栄えないはずはなく、次々に周辺民族を服属させ、多くの都市を建設し、インカは南米に覇を唱えることになりました……
これが、一般的に知られるパチャクティ像です。
しかし、真実はどうだったのでしょうか?
チャンカ族が強いはずがない
パチャクティの英雄的な活躍を肯定する意見は、多数派を占めています。クロニスタのペドロ・デ・シエサ・デ・レオンは、まさにその代表例です。
一方、インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガは、チャンカ族に対して勝利を収めたのはビラコチャの功績だとしているのです。
しかし、これについては、どちらも真実で、どちらもポジショントークかもしれません。
それはこういうことです。
二十世紀に入ってから、チャンカ族がいたはずの、クスコの西 160キロにある集落跡に、考古学的調査が入りました。結果、わかったのは、チャンカ族もまた、後期中間期の一般的な生活様式をもっていた、ということです。つまり、高山の頂点付近に集まって暮らしており、彼らの生活はリャマの飼育に頼っていたので、生産性は低く、よって人口密度も低かったのです。
金銀が存在するとはいえ、ほぼ石器時代も同然の当時のアメリカ大陸です。しかも、騎兵もありませんから、戦争の際の武力は、単純に人間の頭数で決まります。果たして、圧倒的少数だったチャンカ族が、クスコを滅ぼすほどの力を持ちえたでしょうか?

強いのはインカ。
弱いのはチャンカ。
これはもう、明白です。
では、なぜ弱いチャンカ族が、わざわざクスコを攻撃したのでしょうか?
主従関係は個人ベース
ここで、南米における主従関係のあり方を学ぶ必要があります。
ワイナ・カパックは北方遠征で有名ですが、何度もアンティスーユ、つまり帝国東部の熱帯雨林を征服するためにも戦っています。しかしこの地域は、父のトゥパク・インカ・ユパンキが一度征服した場所です。にもかかわらず、再征服をしなくてはいけませんでした。なんと三度も戦わねばならず、そのために王子の一人も失っています。
なぜかというと、当時の南米における支配というのは、個人に対する服従だったからです。アンティスーユにいたチャチャポーヤ人は、あくまでトゥパク・インカ・ユパンキに従ったのであって、息子のワイナ・カパックなど知ったことではありません。
つまり、同じ理屈でチャンカ族が行動した可能性があるのです。
彼らがどういう形でビラコチャに服従したかはわかりません。実際に武力行使を受けたのか、それとも不平等条約を結んで戦わずして軍門に降ったのか。ですが、いずれにせよそれは、あくまでビラコチャとの契約なのです。
たとえ同じ民族集団の新たな王といえども、そのまま支配権を受け継げるわけではありません。ましてパチャクティは、クーデターで政権を乗っ取った人物です。

そう、クーデターです。ビラコチャの後継者はウルコだったはずです。
話の順序を入れ替えて、さもパチャクティに正当性があるかのようにまとめていますが、事実はこうだったのではないでしょうか。つまり、先に簒奪があって、その後にチャンカ族が攻めてきた……
チャンカ族が、主人たるビラコチャのために挙兵したのか、それともインカの混乱に付け込むために攻め込んだのか、それはわかりません。ただ、一つ言えるのは、パチャクティの支持基盤は脆弱だった、ということです。圧倒的少数者だったチャンカ族に、ぎりぎりまで追い詰められてしまったくらいに。
では、追い詰められたパチャクティは、何をしたか?
アヤルマカ族と新たな神話
援軍を求めました。
タダでは誰も動きません。だから、バラ撒きを約束して。
この時、パチャクティが助力を求めた相手が、アヤルマカ族でした。
アヤルマカ族とは何者か。少なくとも、インカの人々とは異なる集団だったはずです。
ところで、アヤルなんとかって、どこかで聞いたような響きです。
ここでちょっと、インカの建国神話を思い出してみましょう。ティティカカ湖から来た、というストーリーと、パカリクタンボの洞窟から来た、というのと、二通りあったはずです。
この、パカリクタンボ版の建国神話を詳しく見ると……
クスコの南東、パカリクタンボの洞窟より、四組の男女が姿を現した。
アヤル・カチとママ・グァコ。
アヤル・オチェとクラ。
アヤル・アウカとラグア・オクリョ。
アヤル・マンコとママ・オクリョ。
クスコの近くの丘の上からアヤル・カチはスリングショットで石を投げ、四つの山を砕いた。
その力を恐れた他の者達は、アヤル・カチを騙してパカリクタンボの洞窟に閉じ込めた。
残った七人はまたクスコに戻ったが、彼らの中の誰かがこの地で人々に崇拝され、かつまた人々を栄えさせるために、父たる太陽と話をしようということになった。
アヤル・オチェが翼を広げて太陽と話をして、戻ってきた。
太陽の命令は、アヤル・マンコがクスコに住むべきというものだった。
また、マンコ・カパックと名前を変えることになった。
命令を伝えたアヤル・オチェは石像と化した。
マンコ・カパックは、後にコリカンチャの建てられる場所に家を築き、クスコを治めた……
はて。
これはどういうことでしょう?
ティティカカ湖版では、神はビラコチャ、創造神です。
ところが、こちらのパカリクタンボ版では、神はインティ、太陽神になっています。
また、神話の登場人物のうち、男性のすべてに「アヤル」がついています。
つまり、ベースとなっているのはアヤルマカ族の神話ではないか、と考えられるのです。
配慮とバラ撒きの果てに
戦後のパチャクティは、もともとインカ族でもないアヤルマカ族を、インカ貴族の一員としました。そればかりか、国内で使用する言語もプキーナ語からアイマラ語に切り替えたらしく、彼自身、わざわざアイマラ語でチャンカ族への勝利を祝う詩を残しています。
いったいどれほどアヤルマカ族に配慮していたか。それが滲み出ています。
インカの建国神話を捻じ曲げて、わざわざアヤルマカ族がインカ族の血縁であるかのように語るストーリーに書き換えているのですから。
また、国家宗教も変わったはずです。創造神への崇拝が、太陽神への信仰へと切り替えられています。クーデターで権力を握った彼には、もはや父と同じように、ビラコチャを崇拝し続けることなど、できなかったのです。

クスコは既に裕福な場所でした。この地の利権に一枚噛ませてもらえるなら、労を惜しまない集団はいたはずです。パチャクティは、異民族であったアヤルマカ族の力を借りて政権を奪取し、チャンカ族の侵略を撃退した。そう考えるのは自然といえるのです。
それを裏付けるように、パチャクティは次々対外戦争を繰り広げるようになりました。開発できそうな土地を見つけては侵略し、インカ風に改造していきました。そうでもしなければ、協力者達へのバラ撒きがままならなかったからでしょう。
また、彼自身の名前も、簒奪の後ろ暗さを掻き消そうとするかのように、派手なものになりました。パチャクティ、即ち「大地を揺るがすもの」とは、なんともご大層な呼び名です。

とにかく、これによってインカはいよいよ帝国の体をなしました。
私達がよく知るマチュピチュの遺跡も、彼の活躍なくしては存在し得なかったのです。また、壮大な要塞サクサイワマンの建造も、彼の手によるものでした。彼は、あの要塞で何をしたかったのでしょうか? 彼が恐れていたのは、他民族の襲撃だったのか、それとも「クスコの内部で起きる反乱」だったのか……

彼は、英雄だったのでしょうか?
ある意味ではそうです。どういう形であれ、王位を手にし、支配地域を広げたのですから。
ですが、彼の簒奪と征服活動、そしてバラ撒き政策は、後の時代において、負の遺産となるのです。
パチャクティの子孫を核とするインカ貴族集団、イニャカ・パナカ。
彼らがあまりに大きな権力を得てしまったがゆえに、インカは帝国自身の暴走を止められなくなるのです。