急拡大の時代
パチャクティ以後のインカ帝国の急拡大。それはインカの栄光の時代だったのでしょうか?
その息子、トゥパク・インカ・ユパンキは、クンティスーユ、つまり西側の広い範囲を征服しました。インカ関連の著書の中には「南米のアレキサンダー大王」なんてキャプションまでついているくらいです。
そして、11代インカのワイナ・カパックはというと、一転して北方を目指しました。現代でいうところのエクアドル、その首都キトを拠点にして、北方の広い範囲を支配下においたのです。

こうしてみると、インカは休む間もなく支配を拡大していったようにみえます。
いったい、何が彼らを突き動かしていたのでしょうか?
パナカとは
南米には「アイユ」という仕組みがありました。同じ祖先を持つ共同体のことを、そう呼ぶのです。
インカ貴族の場合は、これを特に「パナカ」といいます。
これまで便宜的にインカ皇帝という言葉を、他の記事でも使ってきましたが、これは正しい表現ではありません。
サパ・インカ、即ち「唯一のインカ」というのが正しい表現です。また、カパック・クナと呼ぶ場合もあるようですが。南米の普通の支配者は、二人一組で頂点に立つのです。ですがインカは珍しいことに、単独のリーダーをいただくシステムを採用していました。
このサパ・インカですが、死んだ場合、王子の中の「誰か」が次のサパ・インカになります。そしてパナカが形成されます。
パナカとは、王族のことです。ですが、ただ血族であることを意味するわけではありません。既に死去したサパ・インカの代理人という意味合いを持ちます。
例えば、現サパ・インカAに五人の息子がいるとしましょう。その中の一人、Bが次代のサパ・インカになった場合、他の四人は「Aのパナカ」に分類されます。この四人の子供達もみんなAのパナカの一員です。
そこでBが死んで、Bの息子Cが次のサパ・インカになりました。すると、C以外のBの子供達は、みんな「Bのパナカ」に分類されます。
このパナカは、それぞれのサパ・インカのミイラを保護、管理します。
インカの世界観では、人は死んでも死なないのです。新たなサパ・インカになった人以外は、みんなこのかつてのインカを自分の祖先として崇め、祈り、供物を捧げるのです。サパ・インカのほうでも、自分がミイラになって、永遠に供養されることを望んでいます。
ということは……
権力基盤をもつために
パナカの存在は、現サパ・インカにとっては、目の上のたんこぶでした。
先王の意向だと言っては、あれこれ要求ばかりする。それだけではありません。先のサパ・インカが拡張した領土、財産は、基本的に先代の手元に残ります。要するに、パチャクティが得た広大な領土は、現サパ・インカ以外のインカ貴族達の手元に留まるのです。
さて、そうなったらどうなるでしょうか。息子のトゥパク・インカ・ユパンキには、サパ・インカとしての強大な権限こそ与えられていますが、元手となる資産や領土はそんなに残されません。では、どうすればいいのか? その命令権をうまく使って、自分のパナカを作るべく、奮闘しなくてはならないのです。

クスコ近辺の恵まれた土地を持つパチャクティのパナカ、つまり「イニャカ・パナカ」に対抗するために、彼は大征服を行わなければなりませんでした。これが「南米のアレキサンダー大王」の実態だったのです。
しかし、問題はこれで終わりません。いえ、どんどんひどくなっていくのです。
当然ですよね。今度は、トゥパク・インカ・ユパンキの創設したパナカ、「カパック・アイユ」も強大な勢力をもつようになるのですから。

よって、11代サパ・インカのワイナ・カパックは、「イニャカ・パナカ」と「カパック・アイユ」という二大勢力の合間で、なんとか自分の勢力を増していかねばなりませんでした。それは、非常に苦労の大きい作業でした。
クロニスタのベタンソスは、こう述べています。
「多くの女性の召使ママコーナと、若い男性のヤナコーナを贈った。彼らにクスコ近くの河谷に住み、そこで耕し育てたものをパチャクティの宮殿に持っていくように命じた。彼らは果物、取れたてのトウモロコシ、鳥を持っていった。それらはインカ・ユパンキの前に、あたかも彼が生きているかのように、また生前と同じような崇敬の礼とともに置かれた」
また、パチャクティ・ヤムキも、こう述べています。
「伝えられるところによれば、インカ(ここではワイナ・カパックのこと)部下を率いて敵陣に向かったが、その時、敵は既に態勢を立て直し、大勢の援軍で補強されていた」
「同じ頃、クスコから再び援軍がインカの元に到着した。インカは彼らを一人残らず率いて戦いを始めたが、援軍を率いた部将、ミヒク・ワカ・マイタや、その他大勢のオレホン(耳長の意。インカ貴族のこと)達に感謝の気持ちを表さなかった。そのため彼らは激怒し、インカを見捨ててクスコに引き揚げていった」
「そこでインカはオレホン達に数々の約束を申し出て、戻ってくるようにと懇願した」
サパ・インカといえども、絶対的な権力があったわけではない、という証拠です。
インカ貴族層の既得権益は非常に大きく、彼ら相手に妥協を繰り返さなければいけませんでした。そうやって自分のパナカを創設してこそ、真の権力者になれるのです。が、それをすると、今度は次世代のサパ・インカがまた、自分の権力基盤を作るために同じことを……
ここで、インカ帝国の言語がケチュア語に変わった理由も浮かび上がってきます。
ワイナ・カパックは南と北、広い範囲を制圧しました。そして、彼はクスコに帰ろうとはせず、エクアドルのキトに拠点を構え、そこで過ごすようになりました。そして、公用語を北方で使用されていたケチュア語に変更したのです。
クスコはインカの土地ですが、ワイナ・カパックの権力基盤は、既にそこにはなかったのです。彼に富を提供し、軍事力を与えてくれるのは、自力で獲得したキト周辺の領地でした。
拡張の限界
しかし、石器時代の技術水準で、人が暮らせるところなど、限られています。インカにはティワナク文明以来の優れた技術がありましたが、だからといっていくらでも領土を広げられるわけでもありません。
ワイナ・カパックの時代で、インカは拡張の限界を迎えます。
クンティスーユの西にはもう、海しかありません。アンデス山脈を降りた先のアンティスーユには、アマゾンの密林が広がるばかりで、そこには獰猛なチャチャポーヤ人が暮らしていました。ワイナ・カパックはここで三度も戦って、王子の一人も失っています。
南方は、チリ南部に割拠するマプチェ族が頑強な抵抗を繰り返していました。北方では、ワイナ・カパックがあまりに敵を殺しすぎたので、その血で真っ赤に染まったために、「ヤワル・コチャ」と呼ばれるようになった湖があったくらいに抵抗が激烈でした。
インカにはジャガイモと、それから作ったチューニョという糧食があり、またインカ道(カパック・ニャン)があったために大規模な遠征を行うことはできましたが、だとしても、これ以上の勢力拡大は難しくなってきていたのです。

そんな中、1527年に、キトにて謎の疫病が蔓延しました。
ワイナ・カパックはその病気の名前を知ることはできませんでした。しかし、現代では誰もがその存在を知っています。天然痘。人類史上最悪の疫病の一つでした。

インカはその絶頂期から、一気に奈落の底へと突き落とされることになるのです。
インカの末裔?
余談ですが……
私はペルー旅行中、ある出来事をずっと待ち続けていました。そしてその瞬間は、最後の最後でやってきました!
空港に向かうタクシーの中で、初老の運転手が言ったのです。
「私はインカの末裔だ」
キターッ! きたきたきた!
これを待っていた!
同行者が、この人、インカの末裔なんだって、と繰り返すと、私は猛然と食いつきました。
「それってどこ? どこのインカ? イニャカ・パナカ? カパック・アイユ? それともトゥミパンパ・パナカ?」
イニャカ・パナカ=9代皇帝パチャクティの子孫
カパック・アイユ=10代皇帝トゥパク・インカ・ユパンキの子孫
トゥミパンパ・パナカ=11代皇帝ワイナ・カパックの子孫
このどれかでなければ、インカ貴族の末裔ではあり得ません。
次の12代皇帝ワスカルは、小さなパナカを形成しましたが、内乱の際、アタワルパに敗北して滅ぼされていますし、アタワルパもクスコに戻ることなくピサロに捕らえられてしまったからです。
じゃあ、パチャクティ以前のパナカは? 残っていると思います? ビラコチャはクーデターで倒されましたし、崇拝する神まで取り替えたのに? だから、まともなパナカがあるはずもありません。
彼は、答えられませんでした。
実は、これはよくある「見栄の張り方」なのです。相手はわからないだろうと思って、俺はインカだという。でも、日本から来た観光客のくせに妙に詳しいものだから、ボロが出ると思って黙り込んだのです。
いやー、ハマってくれてよかった。嬉しい! ……我ながら性格悪いな、と思いますが。

なので、皆さんもパナカの名前は覚えておいてください!