勝者なき争い

ペルー
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政略結婚と傀儡政権

 当時のピサロは、インカを征服できたと感じていたのでしょうか。
 ピサロと、その盟友だったディエゴ・デ・アルマグロは、カルロス1世からペルー総督の地位を与えられました。しかし、現実的に、広大なインカ帝国すべてを支配下におくなど、数百名たらずのスペイン人にできるはずもなかったのです。
 学のないピサロが歴史を知っていたかどうかはわかりません。しかし、とにかく彼は、アレクサンドロスの真似をすることにしました。

 征服者達は、コヤ、即ち現地のインカ貴族の娘達と結婚し始めたのです。

傀儡に据えられたマンコ・インカ・ユパンキ

 同時に、名目的な支配者を置くことにしました。アタワルパの弟のトゥパク・ワルパです。しかし、彼は天然痘であっさり死んでしまい、更に年少のマンコ・インカ・ユパンキをその地位に据えました。
 こうして徐々に支配力を強めていけばいいと、ピサロはそう考えていたのかもしれません。

今までの続き

 一方、インカ貴族達は、この状況をどう捉えていたのでしょうか。
 彼らは、スペイン人が大きな力を持っていることを知っていました。と同時に、非常に少数であることも。しかし、大西洋の彼方にあるスペイン王国の実態は、きっと想像もつかなかったのでしょう。
 要するに彼らは、これまでの続きをすることにしました。ピサロを初めとする白い人々も、この地元クスコの権力者の一員に加えた上で、なおもインカ内部の権力闘争を繰り広げたのです。

 ピサロはアタワルパを殺しました。敵の敵は味方といいます。
 アタワルパはイニャカ・パナカ派で、ワスカルはカパック・アイユ派でしたから、当然、スペイン人に擦り寄るのは、主としてカパック・アイユでした。

 クロニスタのインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガは、スペイン人とインカ人の混血です。母がワイナ・カパックの孫娘ですから、トゥミパンパ・パナカ出身ということができますが、やはり反イニャカ・パナカだったのでしょう。
 彼の記録においては、パチャクティがチャンカ族を討伐したのではなく、その父ビラコチャの功績であるということになっています。この辺り、対抗勢力にとって都合の悪い歴史を残そうとするカパック・アイユ側の意思が反映されているのかもしれません。

 このような流れの中で、マンコ・インカ・ユパンキはサパ・インカになったのです。ならば自分はタワンティンスーユ(インカ帝国)の主ではないか……当初はそう考えていたのかもしれません。しかし、すぐさま自分がただの傀儡であると気付きました。
 そんな彼は、若いながらになかなか冷静でした。機会が訪れるのをじっと待ったのです。

友情の終わりと蜂起

 ピサロは盟友だったアルマグロと共にペルー総督の地位を得ました。二人は固い友情に結ばれていました。その証拠に、アルマグロはあちこちにピサロに因んだ地名をつけています。インカ軍によって破壊されたキトには「サン・フランシスコ・デ・キト」、また今の「トルヒーリョ」市も、ピサロの出身地に由来します。
 ですが、ピサロのほうはというと、得られた黄金の大きさに、少し目が眩んでいたのかもしれません。スペイン王室は、ペルーに対する主要な統治権を、ピサロだけに与えたのです。これに不服を唱えたアルマグロとの間に、不和が生まれていきました。

ディエゴ・デ・アルマグロ

 この時、アルマグロはインカの人々から助言を受けます。南方のチリは黄金が豊富である、と。こう言われては、動かないわけにはいきません。ピサロは自分に権利を譲ってくれる気配もないし、それならチリに遠征して、得られた利益を独り占めするほうがいいかもしれない……
 あくまで想像ですが、後から考えると、これはマンコ・インカ・ユパンキの「仕込み」だったのかもしれません。優れた武器を持つスペイン人が団結してインカに刃を向けたら、きっと苦戦するだろうと思っていたはずだからです。
 おとなしく逆らわずにいたマンコ・インカ・ユパンキに油断したのか、ピサロも動きます。新たな首都としたリマに向けて出立したのです。

 この隙をついて、彼はクスコを脱出し、十万もの兵を掻き集めて、クスコを攻め落とすべく舞い戻ったのです。ここまでは完璧だったといえるでしょう。
 この「反乱」の時までに、インカの人々は学んでいました。鉄砲は脅威ですが、無限に撃てるわけではないし、再発射までの時間もかかる。大きなリャマ……馬も恐ろしい戦力でしたが、足下に起伏があると思ったほど速度を稼げない。そうしたスペインの兵器に対処する方法を考えてから、戦いに臨んだのです。その意味では、充分に勝機はありました。

三者三様の終わり方

 しかし、大きな誤算がありました。天然痘です。

サクサイワマン砦、まずはここが拠点となった

 クスコは陥落しませんでした。数百人のスペイン兵に勝てなかった? それだけではありません。
 インカの人々の意識は、時代に追いついていませんでした。或いはマンコ・インカ・ユパンキなら、スペイン人の恐ろしさを理解していたのかもしれませんが、多くの人はまだ、イニャカ・パナカ対カパック・アイユの権力闘争の続きをしていると思い込んでいたのです。
 そのため、一貫してスペイン側に立つインカ貴族も存在し、それがインカ側の勝利を妨げる要因となりました。

オリャンタイタンボ、ここも戦場だった

 クスコを落とせなかったマンコ・インカ・ユパンキは、オリャンタイタンボでピサロの弟エルナンドを退けるも、何らかの理由により、この拠点も放棄。更に奥地のビルカバンバへと撤退していきました。
 けれども、このビルカバンバ政権はこの後、1572年、つまりその後三十年以上も維持されるのです。なぜなら、スペイン人同士の争いがいよいよ激しくなったからです。

 完全に仲違いしたピサロとアルマグロは、ついに争いを始めます。チリ遠征に失敗したアルマグロがクスコを占領し、ピサロの二人の弟エルナンドとゴンサロを捕虜にしました。これを奪還しようとピサロも戦いを挑みましたが、これにもアルマグロは勝利します。
 ピサロは、いったんは妥協しました。クスコの統治権を譲り、リマに引き揚げたのです。けれども、今度は不運がアルマグロを襲いました。彼は病気に倒れてしまったのです。これをチャンスとばかり、ピサロ側は反撃に出て、アルマグロを捕虜にします。助命嘆願も無視して、そのまま処刑してしまいました。

 しかし、ピサロにも不運が襲いかかりました。カルロス1世がピサロに死刑を宣告したのです。無実の罪でアタワルパを処刑したから、というのは口実に決まっています。広大で豊かなペルー植民地を、ピサロなんかにくれてやるつもりなど、さらさらなかったのでしょう。
 本国の支持を失った彼は、アルマグロの子供達に殺されました。

 その間、マンコ・インカ・ユパンキは、じっと機会を待っていたのです。
 しかし、彼もまた、勝者にはなれませんでした。新たな総督バカ・デ・カストロの手回しで、彼もまた、暗殺されてしまうのです。

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