インカの終焉

ペルー
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ビルカバンバ政権の終わり、植民地の始まり

 ビルカバンバに立て篭もった最後のインカ皇帝トゥパク・アマルが処刑される時、インカの人々は嘆き悲しんだといいます。スペイン人が到来してからの三十年間で、彼らも悟ったのです。世界はまったく別物になってしまったのだと、インカ族も他のインディヘナも、みんな残らずスペイン人の奴隷になったのだと。

トゥパク・アマル

 これによってやっとペルー植民地を完全に掌握したスペイン王国は、早速締め付けを強化していきました。
 まず、名目上のインカ皇帝など不要なので、早速退位させました。ただ、彼らの一部はずっとスペインに協力してきたので、今後とも免税特権を与えました。また、カニャリ族には「友人インディオ」の名で同じ程度の待遇を約束しました。

 また、現地の支配の正統性を得るために、当初はコヤとの結婚を推奨していたのですが、これもやめになりました。というより「インディオなんかと性的関係を持つな」というお達しが、王室から下されて、多くのスペイン人女性が大西洋を渡ってくることになったのです。
 インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガが書き残しています。

「ある時、スペインから多くの女性が渡航してきたが、それはただ、莫大な富を手にしたコンキスタドールと結婚するためだけだった。彼女らのために、お見合い目的のパーティーが開かれた。そこでこんな会話を耳にした……」

 彼女らは、財産を欲してはいましたが、年老いて傷だらけの征服者達についていえば、まったく好ましく思ってなどいなかったようです。私達は、彼らのインディオを相続するために結婚するのだ、彼らが死んだら若いのと結婚すればいいとかなんとか……

スペイン王家は征服者のために婚活パーティーを催した

 それはともかくスペイン王国も、インカ固有の支配制度の一部は引き継ぐことにしたのです。
 特に悪名高いのは、五代副王トレドです。インカ時代以来のミタ(輪番労働)制度はそのままにして、ポトシ銀山の採掘作業に大勢のインディヘナを動員しました。

5代副王トレド

純粋なカトリック植民地

 当時のスペインはカトリック王国でもありました。ゆえに、非キリスト教徒であるインディヘナはおぞましい存在だったわけですが、奇妙なことに「彼らはユダヤ人の片割れではないか」とする考え方が広まりました。これはスペイン内部に、いわゆるコルベルソと言われる改宗ユダヤ人が大勢いて、そのうちのいくらかはフダイサンテ、つまり隠れユダヤ教徒だったからです。
 こうなると、植民地は純粋なカトリックにしておかなくてはいけませんから、当局は必死で目を光らせるようになりました。とにかく、ユダヤ人の渡航は許せません。

 裏を返せば、それくらい植民地は儲かったのです。
 当時の人々の手紙にも残されています。家財道具を売り払ってこっちに来なさい、一ヶ月で今の一年分が稼げるから、と。

ラス・カサスやアコスタといった聖職者は、
インディオの待遇改善を訴えた

 当時の聖職者にアコスタという人物がいました。ユダヤ人=インカ人の珍妙な仮説に、彼は異を唱えています。
 インカ人にはお金の概念がないが、それはおかしい、あそこまで金に汚いユダヤ人が、インカ人のように金を忘れたりなどできるだろうか……というのがその理由ですから、もう言葉も出ません。

 ペルー征服に気をよくしたスペイン王室は、更なる征服を夢見ていたようです。
 たった二百人ぽっちでインカを征服できたのなら、日本や中国だって簡単だ! と思ったらしいです。一万二千の兵士を用意し、同数の傭兵を日本で募集して、中国を征服しようという計画が、真面目に検討されたといいますから、これはもう、笑うしかありません。もし本当にやらかしていたら、どうなっていたか……

 アコスタはこの計画にも反対しました。しかし、その理由がまた差別的で、今からすると笑うしかありません。

 非キリスト教徒は、三種類に分類できる……
 まずはアステカ人のような野蛮な種族、これは強制的に改宗させる以外にないとのこと。
 次にインカにいたような、多少は野蛮だが、ある程度は話の通じる種族です。なるべく対話で改宗を勧めるべきだが、どうしようもなければ武力行使もやむを得ない。
 最後に中国や日本にいるような、高い文化水準をもった非キリスト教徒。彼らには武力行使を避け、ひたすら理性的な対話によって神の存在を理解させるべきであるとのこと。

混淆の三百年

 スペイン人はこの時点で、完全にペルーを支配した気になっていました。
 インカ皇帝はもういませんが、一応、スペインに協力したインカ貴族には特権を与えました。祭りの日にはインカ王族の衣装を身につけて、街を練り歩くことも許されました。そうしたスペイン文化とインカ文化の融合した社会が、三百年間の植民地時代を通じて、維持されたのです。

 それは文化の混淆を惹き起こしました。今のアンデス諸民族の服装は、そうした影響を目に見える形で伝えてくれています。

先住民とスペインの文化が混ざり合った

 また、呪術の世界にも影響を与えました。
 魔女達は、コカの葉で精神を高揚させました。
 そして「インカ」や「コヤ」の魔力を借りて、刑務所に送られた誰かの釈放を願ったり、敵の破滅を祈ったりしていたのです。しかし、ここでいうインカはあくまで概念でしかありません。パチャクティでもワイナ・カパックでもなく、ただのインカなのです。それは祝祭の日にマスカパイチャを身につけて街を練り歩くインカのイメージでしかありませんでした。
 しかも、その呪文の中には「葡萄酒で洗礼」とか、明らかにキリスト教のイメージも混じっています。

魔術に用いられたコカの葉

 そして、スペイン人が気付かないうちに、思想の部分でもペルーの人々は、スペインと同化していくのです。
 具体的には、純粋なカトリック教国、ユダヤ人差別の思想を、自分達の文脈に合わせて読み替えたのです。

「その通り、人々は純粋であるべきだ。スペイン人はイベリアを、黒人はザンビアを、インディオはペルーを治めるべきなのだ。なんとなればスペイン人は、ミティマエスに過ぎない」

植民地の変容

 三百年に渡る植民地支配の時代も後半に入ると、社会はより複雑な方向に変容していきました。スペイン人がインディヘナを支配する、という単純な構図では語りきれなくなってくるのです。
 現地生まれの白人、即ちクリオーリョの中にも、経済的に困窮する人々が出てきます。その下にメスティーソ、つまり混血の人々が、底辺はインディオという形が出来上がってきました。では、頂点はというと、本国からやってきたスペイン人、ペニンスラールでした。

 植民地政府は、コレヒドールを任命して、各地を支配しました。コレヒドールとは地方行政官のことです。しかし、彼らの給与は決して高くなかったために、インディヘナ相手に商品の強制販売を行って私腹を肥やしました。そのために、ただでさえ貧しい先住民は、ますます困窮したといいます。
 コレヒドールは地元の顔役、即ちカシーケを管理して、彼らを通じてレパルティミエント……かつてのインカのミタ(輪番労働)制度を維持しました。働き盛りの男達が、自費でポトシ銀山などの過酷な現場に送り込まれ、生死を問わない強制労働をさせられるのです。

 この搾取は、スペイン本国の支配がハプスブルグ家から離れた時、更に苛烈なものになりました。ブルボン朝はますます多くの利益を植民地に期待するようになったのです。

インカ最後の光

 そんな中、ある男がインカの魔力を身に纏って現れました。その名は、ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ

 彼はトゥパク・アマルの子孫であると主張し、ユカイの谷にあるオロペサ伯爵領の継承を要求したのです。そこは、かつてスペイン軍に投降したビルカバンバ政権のサイリ・トゥパクが与えられた土地でした。しかし、その子孫が途絶えたのです。それで彼は、ならばインカの血筋の自分が、と名乗り出たのでしょう。しかし、訴えは退けられました。
 話はそれで終わりません。彼は土地のカシーケでしたが、彼の管理する地域のインディヘナは、当局の搾取に苦しんでいました。ポトシ銀山は遠く、とてもではないですが、これ以上の負担には耐えられそうになかったのです。そこでレパルティミエントの免除を願い出たのですが、これも却下されました。

 どんな挫折感があったのかはわかりません。1780年、彼はついに決心してしまいます。
 宴会から一足先に抜け出た彼は、人々に武器を持たせてコレヒドールを待ち伏せ、殺害してしまいます。武器その他の物資を押さえると、彼はインカ王を名乗りました。
 但し、これは反乱でありながら、反乱でないとも言えました。なぜなら、彼はスペインの支配を否定していなかったからです。ただ、過酷すぎる支配を終わらせるのと、あとは南米古来の互酬性の成り立つ関係を望んでいただけでした。だから、役人の中間搾取をなくして、スペイン王の名において戦うと主張していたのです。

 どうあれ、彼はトゥパク・アマル2世を名乗りました。反乱軍は連戦連勝、勢いのままにたった一ヶ月でクスコに迫ります。しかし、ここで足が止まってしまいました。
 反乱を制御できなくなっていた、というのがその理由らしいです。当初、彼の反乱には、インディヘナだけでなく、現地生まれの白人、混血など、人種を問わない協力が得られていました。しかし、インディヘナのほうでは白人を恨んでいたため、白人と見れば虐殺するといった行為が繰り返されました。このために、コンドルカンキは求心力を失っていきます。
 結局、彼の反乱は失敗に終わりました。同時期に挙兵したトマス・カタリなども同様で、とりあえずのところは、すべての反乱は鎮圧されてしまったのです。

 けれども、植民地支配にも限界がきていました。このたった四十年後、ついにペルーは独立を果たします。ですがその時、国の主役になっていたのはクリオーリョ達でした。
 こうしてインカの歴史は、完全に終わりを迎えたのです。

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