事実上の石器文明、だが高度に発達していた
インカは、これまでの南米諸文明の総決算のような存在ということができそうです。ここでは、インカの優れたテクノロジーについて説明しましょう。
まず、インカは事実上、石器文明に属しているといえます。
もちろん、金や銀があったのですから、それよりは進んでいたのですが、古代メソポタミアみたいに銅器が広く普及するような社会には発展していませんでした。また、ロバや馬といった使役獣もおらず、車輪も存在していませんでした。
文字の存在がなかったことも無視できない点です。ただ、これについては、彼らはキープと呼ばれる方法で記録をとることができました。
ですが、金属利用という技術がなくても、ここまで文明を発展させることができるという現実を、インカは私達に示してくれています。記録に残っていない古代においても、人類の祖先は同じように高度に発達した社会を築いていた可能性があります。
では、個別の技術や文化を一つずつ、見ていきましょう。
インカの精髄、アンデネス
まず、注目すべきはやはり段々畑……アンデネスです。

山地の生産性を左右するのは微気候の存在です。数十メートル離れているだけで、気温も湿度も大きく異なるのが山というものです。
そうした差異を均質化し、かつ気温の上昇を見込めるのが、この段々畑なのです。これによって3℃程度の気温上昇が見込めるために、標高にしておよそ500メートル程度、低いところで栽培するのと同じ条件を得ることができました。
もっとも、彼らが主食としたジャガイモは、標高の高いところでも栽培は可能です。彼らがそうまでして作ったのは、トウモロコシでした。

この農作業は非常に重要だったらしく、彼らは試験的な農場を作ったほどです。モライ遺跡は、その目的で建設されたといわれています。

チチャは支配者に不可欠な酒
トウモロコシを原材料にして作られたのは、チチャというお酒です。
アクリャ、即ち太陽の乙女達がトウモロコシを噛んで作るお酒でした。この乙女達を集めておく場所がアクリャワシで、このシステムを作ったのが三代皇帝リョケ・ユパンキとされています。

アクリャ達は、あちこちの豪族達のところから集められ、太陽神への奉仕に用いられた他、インカの愛妾になったり、臣下達に与えられたりしたそうですが……
彼女らが作るチチャは、インカにとってはなくてならないものでした。
なぜなら、南米の支配者のルールは「互酬性」だからです。
南米では、いかなる支配者も、一方的に奪うということは許されませんでした。必ず何かを与えて、その代償に別の何かを取る、というスタイルをとったのです。
プレインカ時代の遺跡を発掘したりすると、銀製の腕をミイラにつなげて、その先にアキリャと呼ばれる黄金のコップを持たせていたりする例も見つかるそうです。つまり、神々と酒を酌み交わす、一方的に神に与えられるのでもなく、また与えるのでもありません。関係性を持っていることを、このような形で表現していたのです。
インカも、だから新たに征服を進める際には、黄金のアキリャを用意しました。これを受け取り、チチャを飲むならば、そこの集落はインカに服属したことになります。以後、インカの要求には従わなくてはなりませんが、彼らもまた、インカからの贈り物を受け取ることができたのです。
それにしても……インカのアキリャには、恐ろしげな顔が刻まれているのです。プレゼントではあっても、それは脅迫だったのでしょう。
織物と金属
また、アクリャ達は織物も作りました。
男性の着用するウンク(貫頭衣)は、画一的なデザインばかりでした。しかし、これはインカの技術力が低かったためではなく、むしろのその逆だった証拠です。
インカ兵が着用するウンクは、彼らが横一列に並ぶと、同じ柄がズラッと並ぶようにできていました。単純なデザインと色合いのせいで、遠くから見るときれいに揃ってみえるのです。またそれは、敵に対するわかりやすいプレッシャーにもなりました。
細かな装飾をする能力がなかったわけではありません。その証拠に、植民地時代になると、彼らは伝統的な技術を用いて、自由なデザインで様々な織物を作り出すようになりました。

こうした作品を作るのはアクリャだけではありません。帝国内のあちこちに職人がいました。特に金属加工の職人は大切にされ、行動の自由もかなり認められていたといいます。
特に黄金は大切で、インカ貴族は耳に金の飾りをつけました。これが何かの事故などで、耳がちぎれてつけられなくなったりすると、不吉とみなされて、貴族の地位を失ったといいます。
重い金の耳飾りをつける彼らをみて、スペイン人は「オレホン」、つまり耳長と呼ぶようになりました。

地産地消の強制移住
しかし、チチャを作るにしてもアンデネスが必要で、アンデネスを作るには大量の人員が必要です。
そこでインカが被征服民に貸したのは、移住と労役でした。
一時的な労役のことをミタ(輪番労働)といいます。命じられた側は、故郷を離れて遠くに行き、そこでインカのために働きました。
これに対して、集団ごと移住させるケースもあります。例えば、ユカイの谷に移り住むことを命じられたのはカニャリ族でした。こういう移住民のことをミティマエス、またはミトクマーナといいます。
最後に、直接命令を受けて働く奴隷のことを、ヤナコーナと呼んでいました。
インカ道と飛脚、結縄
標高の低い土地が広くあり、そこに水源もあるような東アジアと違って、アンデス山脈では常に水が不足し、また土地の高低差も激しく、農耕に適した場所が限られていました。そのため、面を意識した領土というよりは、開発可能な場所が点在している世界ということができました。
かつ、移動手段も限られていました。かろうじてインカ道(カパック・ニャン)を作りはしましたが、これは軍用道路であり、一般人が許可なく利用できるものではありませんでした。第一、高低差があり、車輪もそれを引く家畜もいない世界です。流通が経済発展と技術進歩を促進する環境は生まれませんでした。
インカ道は、大きな幹線道路が二つありました。海岸側と、山脈側です。この二つの背骨に沿って、脇の小道がたくさん作られました。広い道路では、騎兵が六人、横に並んで歩けるほどの幅があったそうです。

こうしたインカ道の脇に作られたのが、タンボでした。
オリャンタイタンボのように、食料を備蓄し、またある程度は生産して、有事に備える場所が必要だったのです。物資の流通能力が低い世界ですから、基本的に資源は地産地消、こうして備蓄しておけるのは例外的なことでした。

また、この道を使って、インカは素早く情報をやり取りしました。チャスキ、いわゆる飛脚システムです。3キロ程度の距離ごとに、チャスキワシが設けられていました。飛脚の交代要員を置いておいたり、彼らに必要な飲食をさせたりする設備です。
ですが、彼らの仕事は情報伝達。まさか伝言ゲームで重要な情報をやり取りするわけにもいきません。

そこで彼らはキープ(結縄)と呼ばれるものを利用しました。その結び目の形で、何かの情報を伝えられるようになっていたそうです。この解読をするのがキプカマヨク、直訳するとキープに力を与えるもの、ということですが、彼らが内容を確認する役目を担いました。
チャスキの能力は、思った以上に優れていたようです。アタワルパが証言しています。
「ここ(カハマルカ)からチャスキを走らせれば、五日で(クスコまで)知らせが届く。普通の人の足では、十五日はかかるだろう」

頑強なインカ建築
インカといえば、まず石組みをイメージする人もいることでしょう。
金属の道具もない彼らが、どうやってあんなにきれいな石垣を作ることができたのか?

やり方は判明していますが、正直、真似したくないほど大変なものです。
とりあえず切り出されてきた石を見て、それをひたすら「こする」のです。固さの異なる別の種類の石を使って、石が石に噛み合うように、ひたすらこすって削る。そうして面と面がピッタリ合うようにして、積み重ねていくのです。
それは確かに、完璧なものになるかとは思いますが……
なお、あちこちに台形型の窓を見つけることがあるかと思います。中には何重にも「開かない窓」が作られていたりしますね。これは、この先が神聖な場所であることを意味しています。

インカの建造物は頑丈で、その上に積み上げられたキリスト教会が地震で崩れたのに、インカの基礎部分は傷一つなかった、なんて逸話もあるくらいです。
インカを巡る自然環境
最後に、インカを巡る周辺環境を説明します。
ペルーの西側、海岸地帯のことをコスタといいます。標高は低いのですが、ほとんどが乾燥地帯です。僅かに河が流れるところがあり、そこでは綿花が栽培されました。
アンデス山脈の中腹、標高二千メートル程度のところをケチュア地帯といいます。ここにインカの人々はアンデネスを作り、トウモロコシを栽培しました。意外な気もしますが、ここがもっとも生産性の高い地域だったのです。
それより高い、高山の天辺みたいなところは、いわゆる山岳地帯、シエラでした。できることといえば、よくてジャガイモの生産、悪くてリャマの放牧でした。インカにはリャマの飼育係という仕事もあって、そこに割り当てられた男達は、リャマと恋をする詩を残したといわれています。
アンデス山脈から東に降りると、ジャングル生い茂るアマゾンの熱帯雨林に差し掛かります。ここではインカが着用するマスカパイチャの飾りになる鳥の羽が採集されました。
これらの地域が、概念的に四つの区域に分けられました。
東はアンティスーユ、西はクンティスーユ。南はコリャスーユで、北はチンチャイスーユと呼ばれており、この四つの地域をまとめた国だから、インカは自国のことをタワンティンスーユと呼んでいました。
短くまとめましたが、インカとは、このような世界だったのです。