ジェームズ・クックの探検と、その死
ジェームズ・クックは1776年、三度目の航海に出発しました。
イギリス海軍に所属する彼は、任務を帯びていました。その目的は、北極海を通って太平洋から大西洋に至るルートを開拓することでした。レゾリューション号に乗り込むと、彼はタヒチに立ち寄り、それから北を目指しました。

1778年、クックの艦隊はカウアイ島に上陸しました。これがヨーロッパ人による、ハワイの再発見とされています。
しかし、そこから先の任務遂行は困難を極めました。アメリカ大陸北西の海岸線を探査し、海図を作成して、アラスカの端を発見して、ついに北極海の入口に辿り着いたのですが、その先に進むことはできませんでした。アメリカ大陸を北に迂回する、いわゆる「北西航路」ですが、秋から冬にかけての北極海を当時の帆船で通行できるはずもありません。船による完全通航は二十世紀になるまで実現しませんでした。
過酷な航海のために、クック艦隊の船舶は修理を必要としていました。それで彼は、ハワイ島のケアラケクア湾に入ったのです。
その時、ハワイではちょうど、お祭りだったのです。
十二月は収穫祭に相当するマカヒキの祭りの時期でした。そこにやってきたクックは、豊穣の神ロノに見立てられて、ハワイ人の儀式に参加することになりました。ヘイアウ(聖所)の中に招かれ、カラニオプウ王に歓待され、手厚いもてなしを受けたのです。
なお、この時、クックが招かれたヒキアウ・ヘイアウは、今でもケアラケクア湾に遺跡として残されています。
ですが、船の修理が済み、再出発したところで、運悪く暴風雨に襲われてしまいました。船体に損傷を受けたクックは、再びハワイを目指すことになります。
しかし、彼はハワイの人々、そしてその文化を理解していませんでした。季節外れの「ロノ」の訪問に、ハワイ人は明らかに困惑していました。その状況で、島民がクックの船からカッターボートを盗みました。いえ、「盗んだ」というのが正しいとは限りません。なにしろクックはロノ、ハワイの神とみなされていたのです。神の持ち物なら、もらっても構わないだろうと考えても不思議はありません。
とにかく、この手の盗難について、彼は単純な解決策を選びました。現地の人を人質にして、返還を迫るという強硬な態度をとったのです。これが揉め事に発展して、ついに投石が始まりました。クックは発砲までしましたが、形勢不利と考えて、逃走に移りました。その時に頭部を殴られ、転倒したところを刺し殺されてしまったのです。

クックは死んでもロノでした。その遺体は持ち去られ、肉を剥ぎ取られて焼かれました。
以後、しばらくの間、ハワイ島は「危険地帯」と認識されることになりました。ですが、状況はすぐに変わっていきました。
ハワイと交易
ハワイ島の存在が知られると、商船や捕鯨船が立ち寄るようになりました。
危険地帯といったところで、もともと太平洋は危険な大海です。それに、ハワイは最寄の島からも三千キロの遠方にある、孤立した島々です。水や食料の補給基地としては絶好の位置にありました。
もちろん、ハワイの人々がタダで欧米人を助けてあげたわけではありません。ちゃんと見返りはありました。
当初の交易は、専ら首長達が独占していました。
絹織物。銀や陶磁器で作られた食器。鏡。そうした貴重品が持ち込まれ、代わりにハワイの側からは、中国で売れる木材として白檀が持ち出されました。彼らはそうした贅沢品を身につけて、権勢を誇ったのです。
一方で、実用品の導入は遅れたといってもいいかもしれません。宣教師達が活動を開始した1820年代に入っても、庶民層は鉄の農具さえ手にしていなかったようです。

但し、武器の普及は速やかでした。
1790年、カメハメハがマウイ島からの攻撃を受けた時、両軍のダブルカヌーには既に、キャノン砲が据え付けられていたといいます。そして、カメハメハには、こうした近代兵器を使用する上での軍事顧問がいました。
クックの死後、十年経つかどうかで、武器だけはここまで素早く導入されたのです。
先住ハワイ社会崩壊のはじまり
実のところ、この時点から伝統的なハワイ社会は崩壊を始めていたのかもしれません。それは心身両面からです。
ハワイを訪れるヨーロッパ人は、ハワイ人の習慣や伝統については、無頓着でした。彼らは自分達の船が停泊している間に、ハワイ人と交流を持ちました。なにしろ当時の船乗りは、長期間、ずっと男だけの帆船の中で我慢を重ねてきているのです。異民族、異人種であろうとも女は女……いえ、世界中の海を彷徨う船乗りにとって、そんな違いは些細なことだったはずです。
ただ、下心があっても、彼らとて暴力に訴えるわけにはいきません。ハワイは貴重な補給基地なのです。だから、相手を喜ばせる方法で親密になろうとしました。具体的には、彼らは女性を船に招き、食事を共にしたのです。
これは、ハワイにおける禁忌、カプーに触れる行為でした。
まず、男女が一緒に食事をするのが禁忌です。それに、ヨーロッパ人はしばしば豚肉を食べました。当然、同席する女性にも食べさせますが、当時のハワイでは、女性が豚肉を食べるのもカプーに触れる行為でした。
カプーとは、ただの禁止命令ではありません。アリイ・アイモク(首長)が宗教的権威をもって定めた禁令です。これに背くならば神々の怒りを招くとされていました。しかし、実際のところ、豚肉を食べた女性がひどい目にあったことなどありませんでした。カメハメハの妻、カアフマヌもこっそりヨーロッパ人の船に行き、豚肉を食べていたといいますから、カプーを破ることの心理的抵抗は、どんどん失われていったのです。

この状況は、アリイ達の伝統的な権威の失墜にも繋がる危機だったはずです。
ただ、豚肉を食べた個人に不幸はなくても、ハワイ人全体でみれば、間違いなく「呪い」が降りかかりつつありました。
結核、インフルエンザ、はしか、百日咳……これは、旧大陸の文明に触れた集団すべてが体験する悪夢でした。病原体をくっつけた欧米人が、無菌状態のハワイ人達に接触し、感染を広げていったのです。
すぐに状況が変わったわけではありません。ですが、19世紀を通じて、ハワイ人の人口は減り続けることになります。

また、それとは別に、目に見える災厄もありました。但しこちらも、表面上は快楽の形を取っていました。酒です。
アルコール飲料もまた、ハワイ人を苦しめました。とはいえこちらは高級品でもあり、当初、被害を蒙ったのはアリイ達ばかりでしたが。大勢の中毒者が出たといいます。
目に見える恩恵と、目に見えない災厄とが迫ってきていました。
そんな激動のハワイで、時代の流れをうまく捉えた人物が台頭します。それがカメハメハ大王でした。