南の島の大王?
♪南の~島の大王は~
♪その名も偉大なハメハメハ~
そんな唱歌まで作られてしまうくらいに有名なハワイ人。
それがカメハメハ大王です。
カメハメハ大王の名前は、今でも広く知られています。競走馬、漫画のキャラクターの必殺技などに顔を出しているので、日本人なら名前だけは、誰でも知っていることでしょう。
もっとも、史実のカメハメハの姿は、一般にはほとんど知られていません。南の島の王様、どうやらハワイの人らしい、というくらいのイメージがあるだけです。
歌を聴くと、なんとものどかな南国世界が思い浮かびます。
ですが実際には、彼の時代からハワイは動乱と悲劇の渦に巻き込まれていくのです。
戦国ハワイ
当時のハワイは、平和とは程遠い状況でした。
クック来航の百年前から島々には首長が割拠し、それぞれの王国を築き上げていたのです。
ハワイ島を支配下においていたのは、カラニオプウ。
マウイ島、オアフ島を治めていたのがカヘキリ。
更に北西、カウアイ島を統治していたのはカヘキリの弟、カエオでした。
これを見ても、その時点でのハワイ諸島でもっとも権勢を振るっていたのはカヘキリでした。カラニオプウもカヘキリの姻族ですから、当時の事実上のハワイ王はカヘキリだったのです。
カヘキリは武勇に優れていたことが知られています。ルアというハワイの伝統武術の達人だったそうです。
カメハメハ誕生伝説
1778年にクックがハワイ島を訪れ、豊穣の神ロノとして歓待を受けていた時、カラニオプウの傍らには一人の青年がいました。後のカメハメハ1世です。彼はカラニオプウの弟ケオーウアと、その妻ケクイアポイワの息子という立場でした。
カメハメハの生年には定説がありません。1758年ではないか、といわれています。ハワイ島北西部のコハラ地方で生を享けました。
彼の誕生は、奇妙な伝説に彩られています。
当時の王アライパヌイは、カメハメハがやがて王となるという予言を受けて、殺害を命じました。これに対してマウイの王カヘキリは護衛を送ってカメハメハをコハラ地方の奥、ワイピオの谷で守り育てたのだとか。生後間もなく母親から引き離されて暮らしたことが彼の名前の由来、すなわちカ・メハメハ(寂しいやつ)なのだといいます。
しかし、なぜカヘキリはカメハメハを守らせたのでしょうか。一説には、実は本当の父親はカヘキリなのだとも言われています。ケクイアポイワがマウイ島に滞在している時に身ごもった、という伝承があるのです。

若いカメハメハは、武勇に優れていました。
まるでアーサー王伝説ですが……ハワイ島にはナハストーンという黒い玄武岩があり、それは非常に重く、持ち上げたものはいずれ王になると言い伝えられていました。誰にも持ち上げることはできなかったのですが、カメハメハはそれを持ち上げてみせました。
また、王に向かって六本もの槍を投げる儀式においては、最初の一本を捕まえて、残りをやすやすと打ち払ったそうです。
ハワイ島統一
クックの来訪後、カラニオプウは息子のキワラオーを後継者と定めました。カメハメハには、戦神クーを祭る役目を与え、キワラオーの補佐に当たるよう命じました。しかし、二人の折り合いは大変悪く、カメハメハは故郷のコハラに引き篭もってしまいました。
1782年、カラニオプウは死去し、キワラオーが新たな首長になりました。しかし、彼には人望がなかったのでしょう。コナ地方のアリイ達は、土地の再配分について不安を抱き、カメハメハのもとに集いました。それはすぐに戦いに発展し、カメハメハはキワラオーを打倒しました。当時のハワイにおいては珍しくもない下克上です。
この時、彼を支援したのがマウイ島の王族であったケエア・ウモクでした。またその娘が、今でも名前の知られるカアフマヌです。このように、カヘキリの子という伝説を補強するかのように、マウイの王族とも関わりがあったのです。
もっとも、これも珍しいことではありません。そもそもカラニオプウの妃だったカローラも、カヘキリの妹だったのです。

キワラオーを倒したとはいえ、まだカメハメハの支配は、コナやコハラ、ハマクアまでにしか及んでいませんでした。残りのハワイ島はというと、キワラオーの異母兄弟のケオーウア(カメハメハの父と同じ名前)がカウを、ケアーウエがヒロを押さえていました。しかし間もなく、ケオーウアはケアーウエを倒してしまいます。
カメハメハには、まだ実力が足りませんでした。そこで彼は、マウイでも最も身分の高い王族の血を引くケオプオラニとも結婚しました。また、1786年、1788年にはそれぞれ西欧人の船が来航し、カメハメハは彼らと会っています。この時にヨーロッパの武器を手に入れたのでしょう。
1790年、勢力を拡張するためか、ハワイ島の敵対勢力であろうケオーウアを放置して、彼は先にマウイ島に攻撃を加えました。イアオ渓谷での戦闘において大勝利を収め、彼は更に進撃します。

それがモロカイ島にまで侵攻しようという矢先、背後を衝く形でケオーウアが挙兵。カメハメハは撤退せざるを得ませんでした。ところが、ケオーウアを倒しきれずにいると、今度は後ろからマウイ島の軍勢が迫ってきたのです。
カメハメハは、これをなんとか水際で撃退しました。この時の戦いでは、既に両軍のダブルカヌーにキャノン砲が据え付けられていたといいます。
そこで、今度こそケオーウアを討つために、南方を目指しました。ここで文字通りの幸運の女神が、カメハメハに微笑みます。
キラウエア火山付近を移動していたケオーウアの軍勢が、噴火に巻き込まれたのです。この出来事によって、カメハメハには火山の女神ペレの加護があると噂されるようになりました。
時は熟したと考えたのでしょうか。カメハメハは、コハラ地方にてプウコホラというヘイアウ(聖所)を建設しました。和戦交渉のためという口実でケオーウアを誘い出すと、カヌーから降りたばかりの彼をケエアイモクが刺殺しました。この遺体をルアキニ(ヘイアウ内にある、人身御供を捧げる場所)供えました。
十年近くにも及ぶ戦いの果てに、1791年、カメハメハはハワイ島を統一したのです。生年が1758年なら、彼が33歳の時でした。
覇権を握る
ハワイ島の統一後、カメハメハとカヘキリは対立しつつも戦争に至ることはありませんでした。
伝説によれば、年老いたカヘキリは「私の体を黒いタパが覆うまでは、矛を収めて欲しい」と懇願したといいます。これが事実かどうかはわかりませんが、敵の首長が弱っているのにもかかわらず、カメハメハはマウイ島に侵攻しませんでした。それは、老いたりとはいえカヘキリの強さを知っていたからなのか、それとも本当にカメハメハの実父がカヘキリだったからなのか、或いはまったく関係ないところに理由があったのか……今となってはわかりません。
しかし、1794年、カヘキリが死を迎えると、状況は一変します。
オアフ島を受け継いだのはカヘキリの息子カラニクプレで、マウイ島はカウアイ島のカエオが受け継ぎました。しかし、両者は戦争を始めてしまいます。最初は優勢だったカエオでしたが、カラニクプレはヨーロッパ人の助力を得て、カエオを討ち取ってしまいました。
これをみて、カメハメハはついに動き出します。
一気にマウイ島を制圧し、そのままの勢いでオアフ島のワイキキに上陸しました。最後の戦いは、ちょうどホノルルとカイルアの中間地点、ヌウアヌ・パリの山岳地帯で繰り広げられました。火器の威力を存分に生かしたカメハメハは圧勝し、カラニクプレは山の中を何ヶ月も逃げ回った挙句に捕らえられ、生贄にされました。1795年のことでした。

このまま一気にハワイ諸島を統一しようと、カメハメハは翌年、カウアイ島を目指して、大軍を率いて出発します。ところが、この時は運がありませんでした。暴風雨が彼の船団を散らしてしまったのです。彼は建て直しを余儀なくされました。
西欧文明とカメハメハ

1802年、カメハメハは拠点をマウイ島の西部、ラハイナに移しました。
彼は火器の威力を目の当たりにして、ヨーロッパ文明の力を痛感していました。学習意欲も旺盛だったのでしょう。彼は英語をすぐさま習得しましたし、ラハイナにはハワイではじめて、煉瓦造りの家を建てました。これは後に崩落してしまいますが、その跡地は今でもラハイナの見所になっています。
1804年には、更に北上してホノルルに拠点を移します。ハワイという立地は、毛皮の交易を行うイギリス人やアメリカ人、ロシア人にとっては都合がよく、ワイキキの海岸でカメハメハは来航者を迎えました。水や食料を与え、船の修繕にも協力しました。そして、その見返りに西洋の技術や知識、家畜などを手にしてきました。
例えば、イギリスのバンクーバー船長が牛を持ち込んだ時には、それを「大きな豚」と呼び、こわごわ近付いたといいます。牛が振り向くと驚いて群衆の中に逃げ込んだとも。ですが、牛の味は気に入ったらしく、「豚よりうまい」と言ったのだとか。馬については「餌に値しない」と切り捨てました。家畜とは食べるものだと考えていたからです。と言いながら、後に彼は乗馬を習得しています。
また、ラム酒の製造にも取り組んでいました。ハワイには土器や金属がありませんでしたが、ココヤシの殻や竹を利用して蒸留器を作りました。
カメハメハは法律も整備しました。ママラホエとは、彼が制定したもので、同情や思いやりなど、人道的配慮に基づくものでした。老人、女性、子供の保護を謳い、非戦闘員の安全を定めた先進的な法でした。現代、ハワイ州の最高裁判所の前にカメハメハ像があるのも、この法律を編纂したからです。

しかし、なんでもかんでもヨーロッパ人の真似をしたわけではありません。
彼はキリスト教の存在を知っていましたが、普段は腰帯一つで過ごし、ハワイ人の伝統宗教を守っていました。定められた日にはヘイアウに篭り、男女共食のカプーも破りませんでした。タロイモ畑では、一般民衆に混じって汗を流して働いていたそうです。
ハワイ諸島統一と、死
1803年、再度のカウアイ島侵攻を目論んだカメハメハでしたが、またもや運がありませんでした。この時は、ハワイにペストが大流行してしまったのです。明らかにヨーロッパ人がもたらした疫病でした。結局戦争を継続できず、撤退することになりました。
このように、カウアイ島の征服はうまくいかなかったのですが、武力でなく、交渉によって決着をつけることになりました。アメリカ人を仲介役にして、当時の首長だったカウムアリイに降伏を促したのです。1810年、カウアイ島とニイハウ島も降伏し、ここにカメハメハはハワイを統一したのです。
その後も彼はハワイを統治し、西欧文明を学び続けました。
カウアイ島の知事にはカウムアリイ、ハワイ島の知事には、なんとアメリカ人のヤングを任命しました。
そして1819年、カメハメハは世を去ります。
あとを継いだのは長男のリホリホ(カメハメハ2世)でしたが、実権を握ったのは継母のカアフマヌでした。以後、ハワイ人の文化と生活は、急速に西欧文明の侵食を受けていくのです。