ハワイ人、19世紀の受難

ハワイ
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神々の死

 1819年にカメハメハ1世が没すると、ハワイにはある種の空白が生まれました。

カメハメハ2世

 リホリホがカメハメハ2世として首長の地位を継ぎ、カアフマヌがその摂政となりました。だから政治的な権力に混乱はなかったのですが、彼らは何に依って生きていけばいいかを見失っていました。
 というのも、宗教的権威を、みんな心の内側で否定するようになってきていたのです。カメハメハ1世の時代から、女性は西欧人の船で、男性と一緒に豚肉を食べました。それでも神々の怒りに打たれることはなく、それまでの神々の世界に対して懐疑的になっていたのです。

カアフマヌはカプーを廃止した

 そんな中、カメハメハの第一王妃で、リホリホの実母だったケオプオラニが、衆人環視の下で、親族の男性と共に禁じられた食事をしてみせたのです。最初はおっかなびっくり見ているだけのカメハメハ2世もこれに参加するようになりました。
 カプーを破っても神罰は下されませんでした。カメハメハ2世は、それまでの神像を破壊するよう命じました。

 ハワイから神がいなくなったのです。

 その数ヵ月後、1820年の 3月に、ボストンから船が到着しました。やってきたのはキリスト教の宣教師達でした。
 ハワイは、完全に宗教的に空白地帯になっていました。布教活動もすぐさま許可され、あっという間にキリスト教が広まっていきました。カアフマヌはじめ、最初は王族が牧師を独占しましたが、宣教師達はこうした権力者の後押しを受けることができました。二十年後には、ハワイは完全なプロテスタント系キリスト教国に変貌してしまったのです。

 思えば、クックが「ロノ」と呼ばれてから、たった六十年のことです。そんな短い間に、ハワイの神々は死に絶えてしまったのです。

ハワイの宣教師文化

 宣教師達は、さまざまな影響を与えました。現代に繋がるハワイ文化の一部は、彼らに由来しています。

ムームーも、女性によるフラも、ハワイとしては新顔の文化

 例えば、女性の正装であるムームーは、ハワイの性文化を破壊するために持ち込まれたものでした。
 というのも、当時のハワイ人は、腰帯一枚で何ら不自由しなかったからです。また、南国ですから、全裸に近い格好で歩き回るのは仕方ないとしても、性的にも非常に活発でした。一夫多妻、一妻多夫も当たり前。ゴチャ混ぜの性的な人間関係が普通だったのです。性的にフリーな社会を構築することで、人間関係を豊かにし、ひいては我が身を守る。そういう社会的な必要性があっての習慣でした。
 ハワイ人にとって、性はネガティブなものではありませんでした。チャント(歌)の中には、王の性器をほめるものがあります。その旺盛な生殖力のような豊穣を祈願するためのものでした。
 ですが、欧米からやってきたキリスト教徒からすれば、そんな考え方は理解不能でした。ただただ不潔としか思えなかったのです。宣教師の妻が残した手記には、子供達への影響を恐れる記述があります。というのも、ハワイ人は子供の頃から性的な知識が豊富すぎたからです。
 そのため、まずは女性の裸を隠すことから始めなくてはなりませんでした。

 宣教師にはハワイの文明化という使命もありました。
 こうした女性の体を覆う衣服を作る技術もまた、伝えなくてはなりませんでした。宣教師達の妻は裁縫仕事をハワイ人に伝え、これが現在のハワイアンキルトを生み出しました。

宣教師の妻達は、針仕事を教えた

 また、布教活動には聖書が欠かせません。
 最初は英語でキリスト教を広めようとしていましたが、理解できない言葉で説明されても、いまいちうまくいきません。1832年には新約聖書がハワイ語に翻訳され、それが教科書となって学校教育が行われるようになりました。
 これは識字率の上昇というプラスの面をもたらした一方で、ハワイ語の本来の発音が失われるという問題も惹き起こしました。

ハワイ経済の変質

 ハワイを訪れたのは、宣教師だけではありません。相変わらず、多くの商船がハワイを経由地としていました。

 彼らは中国との貿易に勤しんでおり、当初はアラスカで獲れたアザラシの毛皮を売って中国の絹織物や陶磁器を購入していました。というのも、西欧社会の産品の中には、中国人の欲しがるものがなかったからです。
 しかし、そのうちにハワイには白檀があることに気付きます。既にカメハメハ1世の時代から、白檀貿易は盛んでしたが、これがこの後も加速していきます。やがて各地のアリイ(首長)達は、まだ伐採もしていない白檀の引渡しを約束してまで、贅沢品を買い漁るようになります。こうして1830年代には、ハワイから白檀がなくなりました。
 その結果は、社会へのダメージでした。平民は食糧生産より白檀の伐採を優先するよう命じられ、自給自足のシステムが大きく揺るがされてしまったのです。

ハワイは捕鯨船の基地となった

 しかし、その後もハワイには次の仕事がありました。捕鯨船のサポートです。
 1850年代には捕鯨がピークになり、マウイ島のラハイナには、年間五百隻を越える船が寄港したといいます。
 また、1830年代からサトウキビのプランテーションも開発され始めていました。そのオーナーは白人、それも元を辿れば宣教師でした。アレキサンダー&ボールドウィン株式会社の創業者二名は、いずれも宣教師の子だったのです。

立憲改革とグレート・マヘレ

 1824年に、カメハメハ2世は世を去りました。即位からたったの5年、まだ二十代の若さでした。原因は、海外への渡航でした。イギリスのジョージ4世と会見するためにロンドンに向かったのですが、そこで麻疹に感染したのです。例によって離島の人々は旧大陸の感染症に対する抵抗力がなく、このために死んでしまったのです。
 あとを継いだのは弟のカウイケアオウリ(カメハメハ3世)でした。

カメハメハ3世

 カメハメハ3世には、現状のハワイがどんなものに見えていたのでしょうか。少なくとも、1832年に死去したカアフマヌまでとは違う世界観を持っていたはずです。
 時代の流れは、あまりに急激でした。クックの来訪から40年後には宣教師がやってきました。カメハメハ3世は1813年の生まれですから、少年時代には、そうした宣教師達の活動を目の当たりにしてきたはずです。
 まだ大人になりきる前に即位して、そこから七年間はカアフマヌが国政を取り仕切っていました。その間、ハワイは新たな文化を受容する一方で、白檀の大量輸出に伴うアフプアアの荒廃にも悩まされていました。

 また、ハワイの人口は激減していました。クック来訪の半世紀後には、もともと25万人ほどだった人口は半減していたのです。その20年後には、更に半減して、七万人程度にまで落ち込むことになります。
 原因は、欧米人の持ち込む疫病アルコールでした。

 そういう過酷な状況を目にしつつ、ようやく自らが直接ハワイを統治するようになったのが二十歳前後から。まだ若く、多感で柔軟な時期です。

 恐らくですが、カメハメハ3世には、相当な危機感があったはずです。
 我が国は途上国である、アメリカやイギリスは我々より遥かに豊かで、進歩している。少しでも追いつかないといけない……

 1840年には、ハワイは立憲君主国になりました。また、1848年には、グレート・マヘレ(大分配)という改革を行いました。
 土地については、かつての制度を権利があるのは王だけではないとしました。首長達や平民にも権利を認めるとしました。そして、近代的な土地所有制度の下、土地の権利者を一人に定めるという目的で、分配を行ったのです。
 王権を弱めてまでも、いわば欧米風の改革を行ったわけですが、これは完全に空振りに終わりました。土地所有の概念が希薄なハワイ人には、あまり意味がなかったのです。しかも、1850年代からは外国人の土地所有が認められてしまい、結果、白人達が土地を買い占めることになりました。

捕鯨ブームの後に残ったのはサトウキビプランテーションだった……

 1865年、アメリカの南北戦争が終わる頃、捕鯨熱も冷めていきました。
 その頃、ハワイの主要産業は、サトウキビプランテーションになっていたのです。白人達は既に大きな影響力を手にしていました。そして、次々死に絶えていくハワイ人は、そこでの労働力としては役立ちませんでした。

 19世紀後半から、ハワイには移民の大波が押し寄せることになるのです。

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