メリー・モナーク

ハワイ
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年季契約の移民達

 19世紀半ば、ハオレ(白人)達による本格的なプランテーション経営が始まった時、ハワイ人の人口はおよそ7万人にまで落ち込んでいました。これでは労働力にはなりません。
 そして、この時代はもう、苛烈な奴隷制度は廃止されつつありました。他の植民地の多くはヨーロッパの奴隷制度の犠牲になって苦しんだのですが、ハワイは発見があまりに遅すぎたため、奴隷制度すら適用されなかったのです。
 そういうわけで、年季契約の労働者を海外から補充する必要がありました。

先頭ランナーは中国人

 中国語でハワイのことを「檀香山」といいます。ハワイの存在が認知されたのが、白檀交易によるものだったからです。
 しかし、清朝は海禁政策を敷いており、国外に中国人が進出することは、この時点ではほとんどありませんでした。

 それでも、なんであれ、手の早い中国人のこと、1803年には既に、ラナイ島でサトウキビ栽培に挑んだ記録があります。この時はうまくいかずに撤退したのですが、1830年代に再び中国人がハワイにやってきて、製糖業に携わるようになりました。といっても、この時点での人数は、せいぜいのところ数十人でした。
 19世紀半ば、プランテーション経営が本格化し始めると、中国からも大勢の移民がやってくるようになります。1852年、福建省から 293人の「苦力」がやってきたのを皮切りに、三十年かけて中国系移民が増え続けていきます。

苦力(クーリー)

 1880年代、中国人は、実にハワイの5人に1人を占めるまでに至りました。彼らはチャイナタウンを形成し、中国人同士で相互扶助の関係を構築していたため、外から見ると排他的な集団でもあったようです。
 ただ、彼らの多くは、そこまでハワイに定着しなかったという現実があります。プランテーションでの労働は過酷で、契約が終わると多くはハワイを去ったからです。そして、1900年にハワイがアメリカ合衆国の準州になると、中国人の上陸は禁止されるようになりました。

二番手は日系人

 中国人の後に押し寄せた移民は、日系人でした。

 江戸時代末期、ハワイ王国はアメリカを通して、日本人の労働移民を手配しようとしました。当時の日本人は一般にハワイの存在をまったく知りませんでした。だから「天竺」行きと称して人を集めたそうです。しかし、明治政府は江戸幕府の渡航許可を取り消しました。それで彼らは違法出国してハワイに渡航したのです。明治元年に渡航したので「元年者」と呼ばれています。
 1868年の渡航者だった彼らの生活は、過酷なものでした。それもあって、しばらくハワイに向かう日本人はいませんでした。

カラカウア王の世界旅行

 1881年、明治天皇は東の彼方からやってきた国家元首と会談をもつことになりました。日本政府が外国の元首を受け入れた例としては、これが初です。

 ハワイ人は、ポリネシア系の特徴である大柄な肉体を誇る一方で、病原体に対する抵抗力がありませんでした。そのために、王位を継いだ人物が、若くして次々死んでいくという悲劇に見舞われてしまったのです。
 カメハメハ大王の直系は五代で途絶えました。次の王は選挙で選ばれました。というより、最有力候補であるルナリロが、自ら選挙を希望したのです。結果、ルナリロは王に選ばれ、彼は親米路線でハワイ王国を導きました。閣僚にもアメリカ人を採用していました。しかし、一年余りで結核に冒されます。
 そのため、次の選挙が行われ、1874年にカラカウアが王位を受け継ぎました。

カラカウア王

 既に19世紀も後半となると、ハワイ王国の国王は、傀儡同然でした。経済力も土地の支配も、ほとんどがハオレ達の手に落ちていました。もともとはキリスト教を伝えにやってきた宣教師の子孫が、いまやハワイのすべてを我が物にしようとしていたのです。
 それでも、カラカウアはハワイをハワイ人の手に取り戻すべく、奮闘します。

 カラカウアにとって、ハワイ王国の舵取りは当初から困難でした。
 というのも、ルナリロが選挙で選ばれた経緯があったからです。と同時に、イギリス寄りだったカメハメハ5世の時代から大きく立場を転換して、アメリカ寄りになり、閣僚にもアメリカ人を数多く採用していました。
 彼の急死に伴って、再び次の王を決める選挙が行われたのですが、そこにはエマ王妃という対立候補がいました。ハワイ人の伝統によれば、血筋は男女どちらからでも高いランクのものを継承することができます。そして、エマ王妃はカラカウアよりカメハメハ大王に近い血筋でした。しかし問題もあって、白人の血をひいてもいたのです。
 カラカウアは選挙戦に勝つためにも、パールハーバーをアメリカ軍に使用させることにしてしまいます。これでアメリカ系の票を集めることはできましたが、ハワイ人の怒りを招きました。

 しかし、なんにせよ、世界を相手に渡り合っていくには、お金がなくては始まりません。そして現状、経済についてはアメリカ人の実業家と、輸出先であるアメリカに依存している以上、妥協は不可欠です。彼はすぐさまアメリカのグラント大統領に面会し、翌年にはハワイの砂糖について輸入自由化を認めさせました。
 売り先さえ確保すれば済むかといえば、そんなことはありません。ハワイ人は病原体によって数を減らしてしまっています。1880年初頭といえば、中国系移民がハワイの人口の五人に一人という状況でしたが、まだまだ人手は必要でした。

グラント大統領

 そこで彼は、1881年、ハワイを出発して、世界一周旅行に出かけます。
 一つには世界というものを直に見て学ぶため。もう一つには、外交において成果を挙げるため。サンフランシスコから日本に渡りました。この時、彼は明治天皇と会見し、移民の要請と、カイウラニ王女との政略結婚を申し出たのです。

明治天皇

 政略結婚のほうは拒絶されましたが、移民のほうは1885年になってようやく実現しました。カラカウアは千人弱の日本移民を自ら出迎え、日本人のほうも歓待に応えて彼に相撲や剣道を披露したといいます。

関税撤廃後の移民

 ポルトガル人も、この時期以降に急に数を増やしました。それまでも、ビーチコーマー、つまり、船に乗ってハワイまで来たのが、そのまま住み着いてしまうことはあったのですが、そうした少数派とは違い、この時期のポルトガル人には移住の必要性がありました。

 そもそもは1876年、ポルトガル領のアゾレス諸島とマデイラ諸島で葡萄の立ち枯れ病が流行したのがきっかけです。これによって収入を絶たれた人達が出てきました。
 そしてこの時点で、ハワイの砂糖の輸入にアメリカの関税がかからなくなっていました。プランテーションは人手を必要としており、仕事を失ったばかりのポルトガル人はそこに大挙して押し寄せました。
 ポルトガル人の移住が集中したのは、1880年代でした。ですが、その後はほとんどみられなくなります。というのも、家族単位でやってくるため、受け入れるハワイ側としては割高だったのです。
 ポルトガル人の多くはルナ、つまり現場監督になることが多かったようです。また、女性がプランテーションで働くことはほとんどなく、家事育児に専念していたようです。

 ごく短い期間に、ハワイ社会全体としては少数の移民があっただけなのですが、ポルトガル人の影響は確かにありました。
 ハワイを代表する楽器であるウクレレを生み出したのも彼らですし、マラサダという揚げドーナツが広まったのも、ポルトガル人が作ったからです。また、フラの楽曲や衣装にも、大きな影響を与えたといいます。

利害の対立

 さて、世界を一周してハワイに帰還した彼は、何を思ったでしょうか。
 少なくとも、ハワイは小さすぎました。かろうじて欧米列強の支配を撥ね退けた日本でさえ、人口は三千万人。しかも江戸時代の高度な文化水準があって、やっとのことでした。対するにハワイはといえば、もともと三十万人にも満たない人口しかなく、それもちょっとした病気でどんどん減っていきました。当たり前のように鉄器を扱う日本人と違って、ハワイ人の技術水準は、少し前まで石器時代でした。
 そして19世紀末といえば、列強がアフリカを分割していた時期です。彼はインドにもイギリスにも立ち寄っています。植民地支配がどんなものか、インドほどの大国ですら、欧米列強の前には無力である現実を思い知ったはずです。
 彼は同盟の必要性を感じていたのでしょう。サモアとポリネシア連合を形成しようと思い立ちます。彼は軍艦カイロミア号を購入し、サモアに航海もしました。しかし、こうした彼の構想は実現することなく終わります。

 カラカウアは、ハワイ王国の存在感を高めることに必死でした。
 国際的地位を高めるために著名人を招いては宴会を繰り広げました。また、そうした客を迎えるために、イオラニ宮殿を建設しました。傍から見れば遊んでいるようにしかみえないので、彼には「メリー・モナーク」つまり「陽気な王様」という渾名までつけられました。
 世界を学び、また世界と繋がるために、世界一周の外遊にも出かけました。これも少なくない出費でした。
 これらの原資は、プランテーション経営をするハオレ達の納税に依っていました。

イオラニ宮殿

 カラカウア自身、為政者としての資質に問題があったことは否めません。首相のギブソンはじめ、人事がとかく「お友達」主義で、公平性を欠いていたという批判もあります。また、放漫財政と言われても仕方のないお金の使い方をしていたらしく、災害復旧を後回しにしていたという汚点もあります。こうした金銭面でのだらしなさが最終的に彼の首を絞めることになりました。

 一方で、彼の目指すところはハオレ達の利益ではありませんでした。あくまでハワイ人のためのハワイを再建することを目指していたのです。ハワイ伝統の音楽に舞踊、これらを復興し、奨励しました。
 現在、フラと呼ばれるダンスが残っているのも、彼の功績です。というのも、かつてのフラは、男達の踊りでした。一流の踊り手は一流の戦士だったのです。しかし、ハワイが欧米の寄港地となってからは、船乗りが欲したのは女性によるフラでした。それが宣教師の目にとまると、今度は淫らとされて、禁止されてしまっていたのです。

失政も少なくなかったカラカウアだが、文化だけは残した

 彼の真意はどこにあったのでしょうか。ハワイ文化の復興は、手段でもあったはずです。彼は血筋からすれば、正統なハワイの王には相応しくありませんでした。だからこそ、より民族主義的にならざるを得なかった事情は、確かにあります。

 しかし、それだけではないはずです。彼は死の前年には王家の口伝である「クムリポ」を公開することに踏み切っています。このままではハワイ文化が死んでしまう、という危機感もあったはずなのです。

 ですが、そんなハワイ人としての彼の使命感など、アメリカ系住民からすれば、知ったことではありませんでした。

もう一つの「アヘン戦争」と銃剣憲法

 祖父が宣教師だった実業家ロリン・サーストン、弁護士のサンフォード・ドールらをはじめとした有力者十三名が集まって、秘密結社「ハワイ同盟」が結成されました。彼らは思い通りにならないカラカウア王に反発し、ハワイのアメリカ合衆国への併合を目指すようになりました。
 このハワイ同盟は、武力を持ちました。義勇軍のホノルル・ライフルズを掌握しました。ホノルル・ライフルズは1884年に結成されたハワイ在住の白人による自警団で、カラカウア自身が承認した集団です。それが1887年、ついに牙を剥きました。

サンフォード・ドール、後のハワイ共和国大統領

 きっかけは、阿片でした。

 中国人の年季労働者の大量流入は、そのまま中国の習慣の移植にも繋がります。そして19世紀の中国は、イギリスが輸入超過を解消するために送り込んだ阿片によって汚染されていたのです。
 だから1850年代、中国系移民が多数活動するハワイでも、多くの中国人が阿片を欲しました。それはやがて、地元の先住ハワイ人にも広まり、次々中毒者を出していくことになったのです。
 この時にも、利益を得たのは多くが宣教師の家庭出身のハオレ達でした。彼らは阿片を売り捌く側にまわったのです。

この時代、中国人の間では阿片が流行していた

 もちろん、ハワイ王国もこの現状を座視していたわけではありません。1873年には医療目的以外の阿片売買を禁止しましたが、これはあまり効果がありませんでした。
 それで1886年、カラカウアは阿片を専売制にしました。高額なライセンス料を支払うことで、期間限定の販売許可が得られると定めたのです。

 どこまでが事実かはわかりませんが、この件に絡んで、カラカウアは賄賂を受け取ったとされているのです。中国系移民が七万ドルもの大金を彼に贈り、その見返りにライセンスを発行してもらえるようにと密約を取り結んだのだとか。しかし、実現はしなかったために、その中国人が国王相手に裁判をおこしたのです。
 普通にまともなルートでライセンスを手にしようとすれば15万ドルもしますから、賄賂を贈る側には合理性がありますが……カラカウアには、それを受け取る意味があったのでしょうか。 

 一つ、可能性として考えられるのは、「覚えていない」という状況です。なにしろ彼は「メリー・モナーク」……死因もアルコール中毒ですから、飲んで正体をなくしている時に、あれこれ謀られてしまったのかもしれません。政治家としては、あまりに脇が甘すぎました。

 ともあれ、この件で彼の評判は、どん底に落ちてしまったのです。

 1887年6月30日、ホノルル・ライフルズは市民集会を開き、カラカウアの悪政を糾弾しました。そしてその翌日、彼らはついにクーデターを起こします。

 カラカウアは、新憲法を承認するしかありませんでした。
 その内容は、欧米系の住民にのみ、利益をもたらすものでした。

 王の拒否権は議会が3分の2以上の賛成で議決した場合、無効と定められました。
 議員の選任ですが、上院については、かつては王に任命権がありましたが、大土地所有者の互選で選ばれることになりました。
 下院については、国籍にかかわらずハワイ語、または英語、或いは西欧系言語の読み書きができる人にのみ参政権が認められ、それも一定以上の資産があり、十分な納税ができる者に限られました。立候補には年収600ドル、一票を投じるにも年収250ドル以上が必要でした。ですが、先住ハワイ人にそんな経済力がある人はほとんどいませんでしたし、アジア系住民はそもそも投票権を得られない取り決めになっていました。
 これによって選挙権を得たのは、この時期から増え始めていたポルトガル系移民だけでした。

 こうした経緯で定められたがゆえに、銃剣憲法と呼ばれています。なお、この憲法は議会の承認の後、王の署名を得て有効とするとされているにもかかわらず、ただカラカウアの署名を得ただけで公布されました。
 ハワイは、こうしてアメリカ人の手に落ちたのです。

 失意のカラカウアは、この後、アルコール中毒に倒れます。
 1891年、サンフランシスコにて死去しました。

カラカウアの妹、リリウオカラニ

 滅亡寸前のハワイ王国を引き継いだのは、妹のリリウオカラニでした。

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