ハワイ王国滅亡

ハワイ
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残された女達

 ハワイ人とアメリカ人の間で板挟みになり、失政を重ねたカラカウアですが、自分が王になった時の混乱については、よく覚えていました。後継者は明確に決めておかねばならないのです。
 最初は弟のレレイオホクを次期国王に定めていましたが、彼が若くして世を去ると、二人の妹を跡継ぎに指名しました。リリウオカラニとリケリケです。しかし、リケリケもまた、カラカウアに先立って病死してしまいます。
 残されたのはリリウオカラニと、リケリケの娘であるカイウラニでした。

リリウオカラニはハワイ最後の女王となった

 リリウオカラニは、キリスト教徒で宣教師達の活動については理解があり、支援を惜しまない人物でした。それだけに、特に穏健派のハオレ(白人)とは良好な関係がありました。それ以外のアメリカ人も、彼女なら自分達にとって都合のいい王になってくれると期待していたふしがあります。
 銃剣憲法が制定された一ヶ月後、彼女はウィリアム・リチャーズ・キャッスルから「カラカウアに替わって王となるつもりはないか」と打診を受けています。というのも、カラカウアは最後の抵抗とばかり、議会から上がってくるあらゆる法案に、片っ端から拒否権を発動していたらしいのです。
 もちろん、彼女は断固として拒否しました。

 ハオレ達はリリウオカラニを甘く見ていたのでしょう。しかし、彼女は兄以上の生粋のハワイ・ナショナリストだったのです。

「砂糖貴族」の横暴

 リリウオカラニは、兄カラカウアが国王だった時代から、しばしば摂政を務めていました。だから、ハオレ達、とりわけロリン・サーストンサンフォード・ドールの卑劣な振る舞いには激しい怒りを抱いていました。
 彼らはカラカウアの努力……アメリカ合衆国が砂糖の輸出に関税をかけない……のおかげで富を築いたのに、思い通りにならないとみるや、公然と反旗を翻したからです。

 そして、「併合派」のハワイ同盟に対して怒りを抱いていたのは、彼女やハワイ人だけではありませんでした。

 カラカウアの在位中にも、ロバート・ウィルコックスが反乱を起こしています(1889年)。銃剣憲法を覆し、国王の権威を取り戻すべく武器を取ったのです。彼は敗北して裁判にかけられましたが、多くの人々が彼に同情的で、反乱という重罪にもかかわらず禁固刑という軽い罰しか科せられませんでした。
 ウィルコックスのクーデターを鎮圧したのは、もと北軍出身、ホノルル・ライフルズを鍛え上げたアシュフォード大佐でした。ところが、このアシュフォード自身も、ハワイ同盟の横暴には呆れ果ててしまったようです。自分達の利益しか考えない彼らと決別したのですが、そのせいで国外追放されています(1890年)。

 良識ある白人から中国人、日系人といった移民、それにもちろん、地元ハワイ人に至るまで、多くの人々が「宣教師派」の非道を知っていたのです。

後にハワイを併合する大統領となったマッキンリー

 それでも、やはり力を握っていたのは宣教師派でした。ハワイ王国のためにはお金が必要で、そのためにはサトウキビの輸出が必要でした。
 当時、後の大統領となるウィリアム・マッキンリーが1890年に高保護関税法を成立させました。高い関税をかけることで国内の労働者と産業を守るのが目的です。しかし、それはカラカウアが勝ち取った砂糖の無関税を覆すものでした。
 このためにカラカウアは最後の交渉に赴きますが、果たせず死去します。

ハワイ革命

 ここに至るまで、散々に辛酸を舐めてきたのがリリウオカラニだったのです。兄の死を受けて王位につきますが、既に王国は死に体といっていい状態でした。これを覆すには、やはり国王に権力を取り戻すしかありません。そのためには、銃剣憲法が邪魔でした。
 1893年1月14日、彼女はイオラニ宮殿にて、新憲法の発布を用意していることを、大勢のハワイ人の前で公表しました。

 その、たった三日後でした。
 現憲法を無視して革命を起こそうとしている女王の動きを封じるという理由で、宣教師派の安全委員会は武力行使に訴えました。しかも、アメリカのスティーブンス公使アメリカ海兵隊を動かし、イオラニ宮殿を包囲したのです。つまり、アメリカの軍隊が、堂々と他国の元首を襲ったのです。
 こうしてサンフォード・ドールを首班とする臨時政府が樹立されたのです。

カイウラニ王女の抵抗

 こうして事実上、ハワイ王国は滅びました。しかし、もう一人の女性が抵抗を試みたのです。
 二週間後、留学先のイギリスで政変を知ったカイウラニ王女は、即座にアメリカに向かいます。既にホノルルからは、臨時政府の承認を求めて、ロリン・サーストンが出発していました。

 ニューヨークでは、カイウラニの訪問が既にニュースになっていました。野蛮なハワイ人の娘がやってくるらしい、と彼らは嘲笑を浮かべていたのです。
 しかし、姿を現したカイウラニには、そんな隙はありませんでした。

ハワイの王女カイウラニ

 もって生まれた美貌に加え、教養と気品まで身につけていた彼女は、そのスピーチでマスコミを一気に味方につけました。

 既にサーストンは自分達の行為を正当化するためにアメリカに発っていましたが、その後を追うリリウオカラニ派の特使コアは、クリーヴランド大統領に面会することさえできず、途方に暮れていました。
 しかし、カイウラニは大統領から昼食会に招かれます。事情を知った大統領は即座にサーストンの主張を退け、事実究明を約束しました。

 その年の八月、アメリカは内政干渉の事実を認めます。
 スティーブンス公使は解任され、女王の復位を認めるとの意思表示がなされました。しかし、これは受け入れられませんでした。なぜなら、リリウオカラニは、クーデターの首謀者達に対する厳罰と、財産没収を主張して譲らなかったからです。また、カイウラニへの譲位についても否定的でした。

 王政復古は、ついにならなかったのです。

リリウオカラニはなぜこの機会を逃したのか?

 いったい、何が起きていたのでしょうか?
 リリウオカラニが頑迷すぎた、という意見もあります。彼女はカイウラニがまだ若すぎることを理由に、譲位を拒否しています。また、人々の尊敬と期待がカイウラニにばかり集中するのを好ましく思っていなかったとも言われています。
 では、リリウオカラニは、話し合いで状況を好転させたカイウラニのせっかくの努力を、無にしてしまったのでしょうか?

 推測するしかないのですが……
 これは、体験の違いを考慮に入れる必要があります。

 カイウラニが大統領と会談したのは1893年、まだ18歳の時点です。そして彼女はその四年前から、イギリスに留学していました。ごく若い時期から当時の先進国で暮らし、その文化に慣れ親しんでいたのです。また、彼女の父親はスコットランド人で、容姿も白人に近かったこともあります。
 彼女にとっては、ハワイ人もハオレも、同じ人間でした。

 しかし、リリウオカラニにしてみれば、それまでの積み重ねというものがあります。
 彼女とて、白人すべてを敵視していたわけではありません。善良なキリスト教徒に対しては尊敬の感情も抱いていました。しかし、問題は根本から解決しなければ、また再燃することを思い知らされていたのです。
 もし、ここで女王復位となったとしても、サーストンやドールが罰を受けず、広大な農園を保持したままであれば、また同じことが起こり得る。そうなれば自分は、兄のカラカウアのように、半ば彼らの操り人形となって地位を保全するか、またクーデターによって排除されるか、どちらかしかない……
 だから、アメリカ政府に対して強硬に処罰を要求したのではないでしょうか。また、カイウラニへの譲位について否定的だったのも、彼女が白人社会に譲歩しすぎる傀儡になってしまうことを恐れたと考えれば、辻褄は合います。現に、彼女の兄のカラカウアがそうだったのですから。

 もっといえば、処罰を徹底しようとしないアメリカ政府の本音としては……内政干渉をしたとなれば都合が悪いから表向きは頭を下げてみせるものの、実はハワイなどどうでもいいと思っていたのではないでしょうか。
 このように、リリウオカラニは、状況の厳しさを認識していた可能性があります。

ハワイ併合

 1894年、臨時政府はアメリカ合衆国が併合を受け入れなかったために、共和国政府を発足させました。相変わらず共和国の大統領は、サンフォード・ドールでした。
 翌年、クヒオ王子を含む王政派が反乱を起こしましたが、十日間に渡る戦闘で敗北し、鎮圧されました。

イオラニ宮殿にはリリウオカラニが幽閉された部屋も残されている

 リリウオカラニ自身はこの反乱に関与していなかったらしいのですが、いくらでも証拠など作れます。イオラニ宮殿から武器が見つかったとして、彼女も幽閉されてしまいました。
 そして、反乱に関与した二百名の命と引き換えに、国王廃位の署名を強制されたのです。こうしてハワイ王国は正式に滅亡しました。

 そんな中カイウラニは、1897年、ハワイに帰国します。
 カラカウアが国歌に定めた「ハワイ・ポノイ」は共和国政府によって演奏が禁止されていたのですが、彼女の前では何度も演奏されました。カイウラニへの圧倒的な支持を前に、共和国政府としても下手に手を出せなかったのです。

 しかし、時代の流れはもうとめようがありませんでした。

 1898年、新たに大統領になったマッキンリーは、モンロー主義をかなぐり捨てました。この時期、米西戦争が起きたのです。
 既に南米の植民地の多くを失ったスペインは大国ではなく、カリブ海にてアメリカはスペインを圧倒しました。しかし、スペインの海外領土といえばもう一つ、フィリピンがありました。
 フィリピンに近い拠点が欲しい。それだけの理由で米国議会はハワイの併合を決定しました。

パイナップルで財を成したドール社のジェームズは従兄弟

 ハワイはアメリカの準州となり、ドールはそのまま州知事となりました。
 なんだかんだいって、アメリカ政府は、自国民の起こした内政干渉と侵略行為を追認したのです。そしてサトウキビ・プランテーションで財を成した「砂糖貴族」達は、今後ともハワイの支配者層として君臨し続けました。

 併合の翌年、カイウラニは23歳の若さで病死しました。ここにハワイ王国最後の希望も潰えたのです。
 晩年のリリウオカラニは、ハワイの文化を残すために尽力しました。あの有名な歌「アロハ・オエ」を残し、また兄が公開した「クムリポ」を英語に翻訳しました。そうして1917年に、79歳で世を去りました。
 クヒオ王子は、出所後に準州の政治家となりました。その後はハワイ人の権利を守るために活動しました。彼もまた、1922年に亡くなりました。

 そして二次大戦後の1959年に、ハワイはアメリカ合衆国によって、正式に50番目の州として組み込まれることになったのです。

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