日系移民の急増
ハワイ王国がアメリカ人に滅ぼされ、共和国になり、それが合衆国の属州になると、移民の流入は加速しました。
1900年から合衆国の法律が適用されるようになると、これまでの年季契約の制度は無効となりました。これにより、移民は身の安全を保証されることになりました。
それというのも、以前までは、三年なら三年の間、プランテーションの仕事に従事すると契約したら、途中で契約を解除することはできず、過酷な労働に耐えなくてはなりませんでした。
ハワイに渡航した日本人の境遇が改善されないために、日本政府はハワイ王国政府に対して、移民のために通訳と医師を配置すること、ルナ(現場監督)から移民を保護することを要求しなければならなかったほどです。しかも、そうした要求を受け入れはしても、ハワイ側には実行力がありませんでした。政府より、砂糖貴族のほうが強かったからです。
だから、日本人移民の中には、苦しい生活に耐えかねて酒やギャンブルに溺れる人も出始めました。また、働かずに済むようにと、醤油を大量に飲んでわざと体調を崩す人もいたようです。それでも働かされた人の中には、過労死する人も出ていました。
それが合衆国の法律が適用されるようになったために、日本人労働者は職業も住居も自由に選べるようになりました。
そのため、王国時代の日本人移民は三万人に留まっていましたが、1907年までに六万八千人もの日本人がハワイに渡航するようになりました。その多くは、いわゆる「官約移民」……つまり日本政府が斡旋した移民でした。
朝鮮系移民
日本人とは対照的に、朝鮮半島からは個々別々に人々がやってきました。
大きく分けると、朝鮮王朝末期からハワイに移り住んだ人々と、戦後、韓国からアメリカに移住するためにやってきた、いわゆる「コメリカン」とに分けることができます。
特に古い時代の韓国人ほど、その境遇は貧しく、まともな教育も受けていませんでした。そして、日系人の場合と違って、その総数も比較的少なく、しかも個々人がバラバラにハワイに向かったため、同じ村の出身者が寄り集まるということはありませんでした。また、時期としても日系人よりやや遅く、プランテーションに縛られる官約移民でもなかったため、その多くがホノルルを目指しました。
彼らの多くは都市部で雑貨屋などのスモールビジネスを営み、そこで成功してハワイに定着していきました。また、同時に彼らの間にキリスト教が広まり、これが都市部の韓国人社会を繋ぐものとなりました。

李承晩も、そうした韓国人の中の一人です。彼もキリスト教徒でした。ただ一般的といえないのは、彼はプリンストン大学の博士であり、かなりのエリートだったという点です。
彼は国民会の教会学校の校長を務めました。ですがその後、袂を分かち、別の教会に同志会を設立しました。
これは1910年の日韓併合を受けての動きでした。国民会は武力で独立を勝ち取ろうとする動きでしたが、李承晩は外交努力によるべきと考えたのです。
後に彼は、大韓民国の初代大統領になりますが、朝鮮戦争後に独裁色を強め、四月革命を惹き起こしてしまいます。その彼が逃げ帰ったのは、若い頃、長く暮らしたホノルルでした。
米西戦争の影響
ハワイ併合の影響は、アメリカ大陸を挟んだ向こう側、プエルトリコにまで及びました。
米西戦争の結果、併合されたプエルトリコは、1899年にハリケーンが襲来し、大きな被害が出ました。そのため、栽培していたコーヒーやサトウキビを失い、生活できなくなった人々が出てきました。そして、既にサトウキビの栽培経験がある人々は、これからのハワイにとっては必要な人材でした。
ただ、プエルトリコ人の多くは、ハワイに向かう途中の旅で脱落し、他の仕事の機会を見つけて散っていきました。かつ、ハワイのプランテーションでの生活も、それほど快適ではなく、しかもアメリカの法律が適用されるようになっていたため、年季契約に縛られることもなかったため、早々にアメリカ本土に引き揚げる人も少なくありませんでした。
決して多数派にはならなかった集団ですが、ハワイにマラカスを持ち込んだのは、プエルトリコ人でした。

また、米西戦争の結果、フィリピンもアメリカの統治下におかれることになりました。
既に過剰な人口を抱え、貧困に悩まされていたルソン島の人々は、アメリカの一部であるハワイに渡って出稼ぎにいくというのは、願ってもないことでした。一方、迎え入れるハワイの側としても、サトウキビプランテーションはこれからでしたし、中国人に代わって数を増やしすぎた日本人の代わりに、別の民族集団を引き入れたかったのです。
というのも、フィリピン人がはじめて移民としてハワイの地を踏んだのは1906年ですが、この時期、日本人労働者によるストライキが多発していたのです。そして、砂糖貴族達はこれに対応するために、民族間の対立を利用しようとしていました。
要するに、ポルトガル人と日本人、日本人とフィリピン人で給与格差をつけて争わせるのです。だから、単一の民族集団が圧倒的多数派となって、しかも結束されると非常に困るのです。
フィリピン人は、とめどもなくハワイに流入しました。移民が始まってからの十年間で、11万人もの労働者、その家族がやってきました。1934年にフィリピンが合衆国のコモンウェルスとなって、フィリピン人が外国人扱いされるまで、この流れは止まりませんでした。
フィリピン人がもたらした文化としては、料理のアドボ、ハロハロなどが知られています。

世界大戦を挟んでの産業転換
この頃からまた、ハワイは少しずつ変質していきます。
ハワイがアメリカに併合された頃から、プランテーションの次の産業となる観光が、少しずつ整備され始めるのです。皮切りは1901年に営業をはじめたモアナ・ホテルで、当初はハワイは高級リゾートとして売り出されました。

1910年には観光用のシンボルタワーとして、地上十階建てのアロハタワーも建てられました。1920年からはアメリカとの定期航路も開設されました。
この流れを受けて、1927年にはロイヤル・ハワイアン・ホテルが誕生しました。外壁をピンク色に塗った見た目が特徴的で、ピンクパレスとも呼ばれたそうです。大劇場、宴会場、映画館……こうした設備を取り揃えたこのロイヤル・ハワイアン・ホテルは、モアナ・ホテル以上の高級ホテルとして知られるようになりました。
1929年には、観光客の数は二万二千人にも達しました。二年前の 1.5倍という激増です。
一方、1924年には移民制限法が適用されるようになり、アジア系の移民は数を減らしました。二次世界大戦が近付くにつれ、貧困地域からの労働力の徴集は難しくなっていきました。
ハワイにとっての次の転機は、やはり世界恐慌と二次世界大戦の勃発でした。
まず、世界恐慌が観光業を打ちのめしました。1933年の観光客は一万一千人、なんと四年前の半分にまで落ち込んでしまったのです。
そして太平洋戦争の最初の舞台もここ、ハワイです。
1941年12月7日。パールハーバーは日本軍の攻撃を受けました。

日系人にとっては受難の時代でした。まだ日本の親族とハワイ移民が繋がっている時代です。しかし、開戦前から日米両国の関係は悪化していました。
日本に帰国した日系人は、特高の尾行を受けていましたし、アメリカ側も1941年1月には、同年7月以降に日本に滞在するものは「米国市民権を離脱したものと推定される」との見解を公表しました。
家族が、日本側とハワイ側に引き裂かれる事態になったこともあります。そして、ハワイに居残った日系人は、疑いの目で見られるようになりました。彼らは天皇の写真や神棚、日本語の本や日本刀など、日本に関するものを片っ端から処分しました。盆踊りや灯篭流しといったイベントもやめました。それでも信用されない日系人は、特別な忠誠心を示す必要がありました。
具体的には、戦争への参加です。ハワイの日系人兵士の募集枠は千五百人でしたが、そこに一万人以上もの応募が殺到しました。
ただ、ハワイ経済という視点でみると、二次大戦はマイナスだけではありませんでした。
高級リゾートとしては低迷しましたし、当初は日本軍の攻撃を受けて混乱もしました。ホノルルには戒厳令が敷かれ、夜間の灯火管制が行われました。ワイキキビーチには日本軍の上陸を妨害するための鉄条網まで式説されました。ロイヤル・ハワイアン・ホテルも、軍に接収されてしまいました。これによって、一度、観光業は死んだも同然となります。
ですが、その後は米軍の保養地として、多くの需要を満たす側になりました。これがハワイリゾートの性質を大きく変えることになります。土産物屋から売春宿まで、とにかく軍の需要は非常に大きく、むしろハワイは未曾有の好景気にわいたといえるでしょう。
こうして世界大戦が終わってからのハワイは、庶民向けのリゾート地として生まれ変わったのです。
と同時に、徐々にプランテーションは衰退していきました。ハワイといえどもアメリカ、その人件費では、徐々に勢いをつけ始めた途上国のサトウキビやパイナップルには、価格で競争ができなくなってきたからです。
今も多様性は増すばかり
1965年に移民割当制が廃止されると、アジア系の移民が急増しました。日系人だけは増えませんでしたが、とにかくフィリピン系の移民が多く、二番目に大きな民族集団となりました。
一方で、ハワイの美しい自然と快適な気候を求めてか、アメリカ本土からの移住者も大きく増えました。

その他、そこまで数は多くないながらも、太平洋の属州などからの移民も目立つようになってきました。
サモア、マーシャル諸島、そしてトンガ。特にトンガの人々は、地元の文化をハワイに持ち込みました。トンガの女性はタパ(樹皮布)を作りますし、カヴァというポリネシア人に一般的だった飲料を嗜好品として利用しています。そしてタオヴァラと呼ばれる飾りを腰まわりにつけています。
これらポリネシア、ミクロネシアからの移民は、既に高度に発達した貨幣経済についていけず、ホームレスになる人も多いといいます。
また、難民が移民になることもあります。
特徴的なのはベトナム人で、ベトナム戦争をきっかけに多くの人々がアメリカ国内に移住しました。その一部がハワイにやってきたのです。今日、ハワイでベトナム料理店をみかけるとすれば、そうした経緯でやってきた人達であるとわかるでしょう。
現代の複雑なハワイ社会は、こうして出来上がったのです。
そして、まだまだ変化を続けることでしょう。