ハワイのサーフィン

ハワイ
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ハワイ発の世界的スポーツ

 誰もが知っているマリンスポーツ、それがサーフィンです。
 ウェットスーツを着た人がボードを担いで海に行き、波間にプカプカ浮かんで大波を待ちます。そしてここぞという時に波に乗り、ザザーと海の上を滑る……好きな人は好きなものです。

サーフィンは既に世界中に広まっている

 この手のスポーツは、先史時代から世界中の海辺で自然発生的に生まれたと言われています。ですが、ポリネシア人の領域、特にハワイほどそれが洗練された場所はありませんでした。

 欧米人でサーフィンを初めて目にしたのはジェームズ・クックだったといわれています。

 ケアラケクア湾において先住民のサーフィンの様子が観察され、記録されました。
 ですが、サーフィンの起源そのものはずっと古く、この時点では既にかなり完成された技術になっていました。

 ハワイ人にとって、サーフィンはまさに国民的娯楽でした。しかも、娯楽以上のものでした。
 男も女も、マカアイナナ(平民)からアリイ(貴族)まで、誰もがサーフボードを持ち、波に乗りました。民話から宗教的儀式まで、さまざまなところにサーフィンは入り込み、生活の一部になっていました。

「サーフィンは先住ハワイ人の間では最もスリルがあり、かつ高貴なスポーツとして知られ、王族、首長、そして一般人の階層の別を越えて営まれている」

 当時の宣教師の記録です。

優れた女性サーファーはヒイアカと呼ばれる

 サーフィンを楽しむのは、人間だけではありませんでした。女神ヒイアカは優れたサーファーであるとされました。なのでハワイでは今でも、優秀な女性サーファーは「ヒイアカ」と呼ばれることもあるそうです。
 サーフィンに対するハワイ人の熱はかなりのもので、サーフボードも大切にされました。素材となる木の選別から制作までが社会的な意味を持っていましたし、これをぞんざいに扱おうものなら、首長が早死にするとまで信じられていたくらいです。

 しかし、間もなくサーフィンもまた、受難の時代を迎えます。

 ヨーロッパ人の来訪は、あっという間に先住ハワイ人の人口を減らしました。疫病が何度も流行したからです。そのために、多くの文化が危機にさらされました。
 しかも宣教師達はサーフィンを禁止し、大事なサーフボードを焼いてしまったのです。非道徳的で好色なものだから、という理由ですが、これでは全然説明になっていません。
 実のところ、サーフボードを作るのがカフナ(職人)の仕事だったからではないでしょうか。カフナはただの職人ではなく、作り出されたカヌーやサーフボードにまじないをかける存在でした。その祈りの要素が宣教師に目をつけられた理由ではないでしょうか。

 そんな中、ハワイのサーフィン文化を守ってきたのは、アブナー・パキジョージ・フリーチ、そしてデューク・カハナモクといったサーファー達でした。

ハワイのヒーロー、デューク・カハナモク

 デューク・カハナモクという名前は、あまり彼には相応しくない気がします。
 なぜなら、彼はデューク(公爵)というよりキング(王)だったからです。

伝説のスイマーにしてサーファー、デューク・カハナモク

 1911年、ハワイ初の水泳競技会が開催された際に、彼は100ヤード自由形において、当時の世界記録を4秒以上も縮めました。ですが、当時のカハナモクは無名で、何かの間違いだろうとして、正式な世界記録にはなりませんでした。
 ですがその後、カハナモクはアメリカ代表としてオリンピックに4回も出場し、金メダルを3つ銀メダルを2つも獲得しました。まさに競泳界の王者だったのです。

 しかし、彼の真価は水泳ではなく、やはりサーフィンにありました。
 伝えられるところによれば、彼は曲芸のような技を見せながらサーフィンすることができたそうです。後ろ向きで乗ったり、逆立ちしたり……
 タヒチの伝説的な航海士の家系であるパオア家を母方に持つ彼は、生まれも育ちもまさにハワイ人サーファーだったといえます。

 ハワイがアメリカ合衆国に併合されてワイキキが観光地化すると、サーフィンを巡る状況にも変化が訪れます。白人限定のアウトリガー・サーフィンクラブが1908年に結成されたのです。
 これに対抗してか、カハナモクらは人種に限定されない「フイ・ナル」というクラブを創設しました。この団体は、現在でも活動を続けています。
 彼は競泳選手として世界中に招かれたのですが、そこでサーフィンの素晴らしさを布教してまわりました。優れた技術で波に乗ってみせるだけではなく、サーフボードの作り方に至るまで幅広く指導しました。
 また、伝統的なサーフボードであるオロの再生にも取り組みました。

カハナモクの像にはいつもレイがかけられている

 1968年にカハナモクは死去しましたが、今でも彼はハワイのヒーローです。
 ワイキキビーチには、彼の立像が残されていますし、毎年8月24日には、ワイキキにあるデュークス・クラブを中心に、彼が得意とした水泳やアウトリガーカヌー、サーフィンなどの競技会が開催されています。

今でもハワイはサーフィンの中心地

 現代でも、やはりサーフィンの中心地はハワイです。
 ハワイのビーチ情報を調べればすぐにわかることですが、実は遊泳に向く海岸の方が圧倒的に少ないのです。オアフ島の周囲は波が強く、ボディサーフィンすら可能な環境だったりします。
 しかし、なんといっても波が強いのは、冬場の北海岸でしょう。

 毎年11月から12月にかけて、オアフ島で開催されるトリプルクラウン競技会は、ノースショアのハレイワビーチ、サンセットビーチ、パイプラインの三箇所で開催される三大会からなるイベントです。
 世界中の一流サーファーが競い合うビッグイベントですが、やはりというか、優勝者はハワイ出身者が多いようです。

 ところが、このイベントすら中止されることがあるのです。
 波のコンディションがエディー・アイカウ競技会を開催するのに適した状態……ノースショアのワイメア湾において、六メートルを越える大波が継続的に打ち寄せている際に開催されます。ですが、理想的な波がいつもいつも来るわけではないので、ちょうどチャンスがくれば、他のイベントを捨ててもこちらが開催されるのです。

 ただ、ハワイ人にとっては、サーフィンはただのスポーツでは片付けられないところがあるようです。
 世界のサーフィン界をリードするサーファーの多くがハワイ人である一方で、商業化されたサーフィンイベントに参加することを拒むサーファーもいるのです。それは、欧米人到来以前のサーフィンの精神的伝統を守ろうとする動きが失われていないことを示しています。

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