三韓の成立とその社会
朝鮮半島の北側で夫余系をはじめとした集団がいくつもの勢力を作り上げ、互いに争っていた頃、南部でも活発な動きがみられました。
南漢江を境に、西から馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる連合国家が産声をあげたのです。

といっても、三つの国がありました、という表現は適切ではありません。これら三韓は、北部の国々より更に複雑な状況下にありました。なぜなら三韓の何れの連合国家も、小国家の集合体で、しかも内部の民族集団も一様ではなかったらしいからです。
馬韓は五十数カ国から構成されていて、弁韓、辰韓はそれぞれ十二カ国の連合体だったといいます。また、馬韓内部の国々の規模もいろいろで、大国には一万ほど、小国でも数千の家があった一方、弁韓、辰韓では大国でも四、五千戸、小国では数百戸ということだったらしいので、こうした記録がそのまま文字通りの事実だった場合、馬韓は東側に比べて相当な大国だったということになります。
これら小国は、それぞれ治外法権の独立国だったようです。仮に他国で犯罪者になっていても、いったん自国に受け入れた場合は、他所に引き渡すことはなかったようです。国境線を定める際には、蘇塗と呼ばれる木柱を立てて、目印にしました。
それぞれの小国には首長がいましたが、そこにはランク付けがあったらしく、有力なものは臣智、格が落ちるものは邑借と呼んだそうです。また、首長とは別に宗教上の指導者が存在していて、これは天君と呼ばれていました。

三韓をまたいで権威を示す存在もありました。辰王がそれで、衛氏朝鮮の時代、南方にあった辰国王族の末裔です。三韓の国々はこれを擁立して、外交にあたらせました。辰王は目支国に滞在していましたが、各国に対する命令権をもっていたわけではないようです。
この辰王を共同して擁立した国々が、馬韓の臣雲新国、臣潰沾国、弁辰の安邪国、拘邪国などでした。臣雲新国は現在の全羅道に、臣潰沾国はソウル近辺、安邪国は慶尚南道の中南部、拘邪国は釜山の北西方向に存在しました。この拘邪国は、後に金官国とも呼ばれるようになります。
この当時、既に伯済国……後の百済と、斯蘆国……後の新羅も既に存在していましたが、当時の国々の中で特別な地位にあったのでもないようです。
金官国はインド由来?
ここまで見た限りで考えると、なかなかにややこしい政治情勢がありそうだと考えられます。
まず、古い時代に存在したであろう辰国。この権威を形式上、借りる国が「いくつか」あった、ということです。しかし、三韓のすべてがそうしたというわけでもありません。
かつ、三韓に属した国々の、それぞれの民族集団も、かなり雑多なものであった可能性が高いです。

例えば、金官国です。
今でも釜山の郊外に行けば、首露王陵を見ることができます。しかし、彼はいったい、どこの人だったのでしょうか?
その王妃である許黄玉はインドから渡来したといい、彼女が生んだ王子のうち、七人は仏道に入ったといいます。このすべてが真実とは限りませんし、いくらかは創作も混じっているかもしれませんが、紀元前後の時点で既に、朝鮮半島南部に仏教が入り込んでいた可能性はありそうです。
というのも、2004年の研究で、王妃の墓所から取得した人骨からミトコンドリアDNA が採取され、それがインドなど南方系のものである、という証拠が得られたというのです。

伝承の通りとするならば、インドのデカン高原に割拠したサータヴァーハナ朝の王女が、韓国南部に辿り着き、そこの有力者だった首露王と結婚した……ないし首露王自身も外国からの渡来人だったという可能性が出てきます。
サータヴァーハナ朝は紀元前230年頃に建国され、220年に滅亡しています。バラモン教が国の宗教でしたが、仏教も排斥されず、特に王家の女性は仏教教団に対して数々の寄進を行っていたといいます。また、母系の大家族制をもつドラヴィダ人の影響が色濃い文化をもっていたようです。ローマとも交易し、一時は大いに栄えました。
金官国で話されていた言語には、一応「伽耶語」の名前がついていますが、この言語について判明している単語はほとんどありませんし、文法構造もわかりません。彼らはどこからやってきたのでしょうか。
耽羅国はどこの人が作った?
済州島についても、独自の民族集団が存在したといえる証拠があります。
耽羅国は、古くは中国では州胡と呼ばれていました。住人の背は低く、鮮卑の人々のように髪を剃る習慣があり、上半身には革の衣服を着るのに下は何もなくて裸に近かったといいます。牛や豚を飼育して、三韓と交易をしていたそうです。
島の三姓穴から出てきた三人の男が、東方の碧浪国から三人の女を娶って建国したという独自の伝説をもっています。

済州島の言語は、独自のものでした。
ずっと後のことですが、1250年に済州島に流された金浄は「済州風土録」の中で、こう述べています。
「土人の語音は細く高いこと針の如し。多くの言葉は理解できない」
李朝時代に入って、済州島が中央の支配下に入ってからも、状況は同じでした。
1601年に安撫御史としてやってきた金尚憲は「南槎録」の中で、やはり同じく記しています。
「初めて聞く人々の言葉はダルマナエガの鳴き声の如し。聞き分けることができない」
鳥の鳴き声に喩えられるほど、わかりにくかったということですが、この時点での済州島には、中期朝鮮語はもとより、日本語、満州諸語、中国語、フィリピン諸語、モンゴル語などの語彙も交じり合っていました。
しかし、もちろん、こうした外来語の数々が混じる前の済州語もあり、固有の語彙も現代まで伝えられています。
元の済州語の言語系統については、いまだに謎だらけです。
ただ、少なくとも、韓国本土にいた集団とはまったく異なる人達だったであろうことくらいしか、わかりません。この後、耽羅国は百済にも新羅にも朝貢し、日本にも使者を送っています。ということは、これらの何れの民族集団とも異なっていたのです。
このように、古代の朝鮮半島は、諸民族のごった煮だったのです。
複雑な多民族・多言語社会
とりあえず、それ以外はどうだったのでしょうか。
斯蘆国の言語は新羅語だったと考えられます。新羅語は後に中期朝鮮語に変化し、これが現代の朝鮮語の基礎となりました。ですが、その他については、どうもよくわかっていないのです。
百済については、高句麗語と近い言語が用いられていたらしいとわかっていますが、これは支配者層のことで、百済に征服された馬韓の国々がどんな言語を用いていたかは不明です。もしかすると、ほぼ新羅語だったのかもしれませんが、これはなんとも言えません。
韓系諸語について、明確な証拠はないながらも、シナ系ではないかと言われています。後漢書などの記録に従うならば、馬韓の言語は他と違うが、弁韓、辰韓の言語は共通だったということなので、国ごとに全部民族も違うというほどでもなかったのでしょう。少なくとも、共通語としての韓系言語があったはずです。

思えば聖徳太子には「豊聡耳」というあだ名がありました。大勢の言ったことを一度に理解したから、ということになっていますが、実のところは多数の言語に精通していたからではないか、という説もあります。当時の朝鮮半島には、いったいいくつの言語があったのでしょうか。
もし彼とか、他の誰でも、当時の朝鮮半島情勢について、常識レベルの話を詳しく書き残してくれていれば、後世の人は悩まずに済んだのですが……昔の人は、当たり前のことをいちいち記録することの重要性を知らなかったのです。
だからこそ、歴史の探求は面白い、といえるのですが。