高句麗集団の勃興
恐らくは紀元前後から、高句麗は興りました。紀元前1世紀に、文献上ではじめて高句麗の名前が記録されています。といっても、当初は有力な遊牧民集団だったというだけでしょう。中国でいえば前漢時代、だいたい楽浪郡の設置前後に記録が残っているところをみると、集団そのものは、もっと早い時期から存在していたのかもしれません。彼らの活動範囲は、朝鮮半島というよりは、むしろその北側でした。
前漢が滅び、王莽が新を起こすと、高句麗は討伐を受けて君主を討たれました。また、国名を下句麗と改められるという侮辱を受けました。このため、この地域ではますます中国勢力に対する反抗が強まりました。
漢が玄菟郡の所在地を後退させ、永安台古城に移転にしたのは二世紀初めです。この時期から、徐々に高句麗は強盛になってきたということです。
朱蒙の建国神話
高句麗が勢力として成長し、王権が強まると、その権威を彩る建国神話が生まれました。
それは多分に中国の文化的影響を受けた物語ではありますが、北東アジア特有の性質も帯びています。
『始祖・朱蒙の母は河伯の娘で、夫余王によって室内に閉じ込められていた。そこに日光が差し込んで妊娠し、大きな卵を産んだ。王はこれを捨てたが、犬や豚は食べず、牛馬はこれを避け、鳥は羽で温めた。そこで王はこれを割ってしまおうとしたが、できなかったので母に返した。
やがて殻を破って男児が生まれ、これが成長すると、弓の名手に育ったので、朱蒙と名付けられた。夫余の人々は朱蒙を除こうとしたが王は許さず、朱蒙に馬の養育を命じた。彼は馬の良し悪しを見抜いて駿馬を自分のものとした。また狩猟では多くの獲物を得た。これを見て、夫余の人々はまたも朱蒙を殺そうとした。
母は遠くに逃れるようにと息子に言った。朱蒙は二人の従者を連れて東南に逃れたが、途中で大河に阻まれ、夫余の追っ手が迫った。そこで朱蒙は河に向かって
「我は日の子にして河伯の外孫であるぞ」
と告げると、魚や亀が浮かんできて橋ができたので、逃れることができた。
朱蒙は普述水に至り、そこで出会った三人を連れて卒本に至って、そこで高句麗を建国した』
この建国神話は、夫余の東明伝説によく似たものです。
特徴としては、「日光によって妊娠する」という北東アジアに広くみられるストーリーと、「卵から生まれる」という南方系の要素が混在している点です。なお、河伯は中国の神で、もともとは黄河を治める神です。
この後、朱蒙の伝説は、夫余の東明伝説と統合され、更には檀君とまで関連付けられるようになっていきます。

では、夫余と同じ民族なのか、ということですが、これは結論は出ていません。当時の記述によれば、言語は夫余と同じなのに、衣服は違うとありますし、墓の作りもかなり違います。高句麗は一貫して積石塚を作るのに対し、夫余は土壙墓または木棺墓を選んでいました。
部族連盟の時代
2世紀末、後漢が混乱に陥り、いわゆる三国志の時代に入ると、遼東半島は公孫氏の独立勢力が掌握するようになりました。
この時期、高句麗王だった伯固は死去しました。二人の王子の間で王位継承問題が起き、弟の伊夷模(山上王)が兄の抜奇を押さえて王に推戴されました。公孫氏の介入を受けて山上王は東に移り、今の中朝国境付近、鴨緑江の畔に国内城、そして戦時用の城としての丸都山城を築いて新たな高句麗の都としました。
当初、高句麗は中国北部を押さえた魏と友好的な関係を取り結び、魏による公孫氏討伐にも援軍を送るなどしていましたが、やがて直接国境を接するようになると、緊張が高まっていきました。時代の東川王の時代に、魏の毌丘倹の攻撃を受けて、更に遷都することになりました。
この動乱は、高句麗の国家としての性質を少しずつ変えていったようです。
それまでの高句麗は、王を戴いているとはいえ、部族制国家の性質を強く残していました。
もともと那(奴)という地縁的政治集団が存在していました。那とは「水辺の土地」を意味します。これらには首長層が存在していて、それは大加・諸加といいました。被支配民のほうは下戸と呼ばれました。
この中でも有力なものが五つの部族で、桓奴部、絶奴部、消奴部、灌奴部、桂婁部が魏志に記録されています。最初、高句麗王が選出されていたのは消奴部からでしたが、後に桂婁部に権利が移りました。また、絶奴部からは王妃が出ていたといいます。
いずれにせよ、いわゆる遊牧民のクリルタイと同じように、合議による選出で王が選ばれていたのです。だから王権は必ずしも強固ではありませんでした。
ですが、東川王の東遷に際して力を発揮したのは上記の五部ではなく、王直属の部下でした。
この時期から、徐々に高句麗は王権を強化していくことになりました。
高句麗社会の変容
3世紀の苦難の時代を経て、4世紀初め、美川王の下で改革が行われます。十三等からなる官位制度を整備し、王権を強化しました。そして313年には楽浪郡を滅ぼして、朝鮮半島北部を掌握しました。
ですが4世紀の半ばには、五胡十六国時代の混乱の中から鮮卑系の慕容氏が前燕を建国し、再び丸都を攻撃しました。美川王の墓は暴かれ遺体も奪われ、王母、王妃も捕らえられ、宮殿も焼かれると、壊滅的な打撃を受けました。
この過酷な状況で、故国原王は前燕に朝貢し、冊封も受け……しかし前秦が前燕を滅ぼすと、逃げてきた慕容評を捕らえて送り返したりしています。
けれども、南から勃興してきた百済の近肖古王の攻撃を受け故国原王は戦死してしまいます。
続く国難の時代を、小獣林王、故国壌王が立て直します。
372年、前秦の仏僧・順道が仏像と経典をもたらし、三年後には肖門寺を創建しました。この頃から、朝鮮半島の北方では仏教が受容され始めます。ただ、仏教一辺倒だったかというとそうでもなく、故国壌王の時代には宗廟も整えたといいますから、要は中国文化から何でも学んだ、というところでしょうか。後に道教も受容していますから、本当になんでもありだったようです。
他、律令を整備したとも、太学を設けて教育に力を注いだとも伝えられています。
こうして高句麗は、二百年という時間をかけて、これに続く飛躍の時代への準備を済ませたのです。
高句麗の全盛期
高句麗の王でもっとも有名なのが、広開土王でしょう。
主に百済と戦い、その首都だった漢山城を攻撃し、阿華王に忠誠を誓わせています。また、新羅が倭の攻撃を受けた際には援軍を送って撃退する一方、北方では粛慎や夫余などを圧倒して、捕虜となっていた一万人もの高句麗人を奪還しました。更に西の国境では、後燕と戦って遼東郡を奪い取りました。

5世紀は、高句麗にとっての全盛期でした。あとに続いた長寿王は、なんと413年から491年まで、79年間に渡って王位を保ちました。
長寿王は北魏にも南宋にも入貢し、良好な関係を保ちました。一方で百済に対しては積極的な攻勢に出て、475年にはついに百済の王都を陥落させ、蓋鹵王を処刑するまでに至りました。
また、勿吉(粛慎の末裔)に滅ぼされた夫余の来降を受け入れ、北方でも権威を増しました。
続く文咨明王の時代には、高句麗は最大版図を実現します。ですがこの時代から、百済と新羅は同盟して、高句麗の圧迫に対抗するようになりました。

衰退と中国との戦い
6世紀に入ると、徐々に高句麗は衰退していきます。
安原王が病に倒れると、二年間に渡る外戚の勢力争いが繰り広げられ、結果、当時8歳の陽原王が即位しました。この時代には、北方からは突厥の侵略を受け、南方でも百済や新羅に敗戦を重ね、謀反まで起きて、高句麗は弱体化しました。
6世紀末には、中国の南北朝時代が終わり、隋が統一を果たします。
その結果、高句麗が服属させていた契丹や靺鞨(勿吉と同系統)が隋に朝貢し、離反するようになりました。そのため、高句麗は靺鞨と抗争を繰り広げるようになり、それをきっかけに隋の遠征を惹き起こしてしまいます。
初回の文帝による遠征は、兵站の維持に失敗したのもあり、また高句麗側が謝罪したのもあって終息しましたが、その後、煬帝は高句麗と突厥の友好関係から、中国への侵略を恐れ、二度、三度と大規模な遠征を繰り返しました。
この時、活躍したのが乙支文徳です。宇文述率いる隋の大軍を相手に何度も戦い、敗れることがありませんでした。隋軍の兵糧の少なさに気付いていた文徳は、降伏の意思を匂わせる詩を書いて送り、撤退してくれれば王を差し出すと伝えました。宇文述は渡りに船と、これを受け入れて撤収し始めました。隋軍が清川江を渡ったところを見計らって、文徳は攻撃を浴びせ、隋軍を壊滅させました。このことは「薩水大捷」として後々まで語り伝えられることとなりました。

隋が滅んで唐が興った時、高句麗の栄留王は友好的な態度を選びました。隋軍の捕虜達を返還して唐の冊封を受けたのです。
ですが、その二十年後には、情勢はすっかり変わっていました。唐の攻撃を恐れた高句麗は、千里長城を構築し、一方で世継ぎを人質として差し出すなどして、対応します。
642年、情勢に危機感を覚えていた淵蓋蘇文が立ち上がり、クーデターを起こします。栄留王は殺害され、太宗はこれを討つべく大軍を発します。

645年、唐軍を楊萬春が迎え撃ち、六十日あまりの防衛戦の後、撃退します。
こうして一時的に息を吹き返した高句麗は、周辺の敵勢力を討伐します。麗済同盟を結んで百済と連携し、新羅を追い詰めました。それが唐の遠征を招きますが、これも撃退します。ですが、結果を見た唐が、先に同盟国の百済を排除することを計画し、660年、百済を滅亡に追いやります。
翌年には高句麗も攻撃を受けますが、これも撃退しました。ですが、それまで高句麗を導いていた淵蓋蘇文が死去すると、その息子達の間で内紛が起こり、これに付け込んだ唐が再度遠征を行った結果、668年に高句麗は滅亡することとなりました。