百済の勃興と一度目の滅亡
朝鮮半島の三国の中で、もっとも謎が多いのは、百済かもしれません。
歴史を書けと言われれば、教科書通りのことを書き連ねることもできますが、それでは数々の疑問に答えることができません。いろいろな資料に目を通したのですが、明らかにできないことがあまりに多いのです。
現時点で正しいとされている歴史を述べると、次のようになります。
現在のソウルにあたる漢城近辺に、馬韓諸国の一つとして、伯済国が存在しました。これが母体となって、百済が成立したといわれています。但し、その経緯はほとんど明らかにされてはいません。

その後、明確に歴史に登場するのは、やっと四世紀に入ってからです。百済の近肖古王は、369年に高句麗を撃退すると、371年には平壌を攻め落とし、故国原王を戦死させるに至りました。また、東晋に入朝し、冊封を受けました。同時期に倭国とも通交を開始して、七支刀を贈っています。
その二代後、枕流王の時代には、西方の仏僧、摩羅難陀を迎え入れて仏教を受容しました。

その後間もなく、高句麗は広開土王の下で南北に勢力を拡張します。百済の阿華王はこれに敗れ、服属を余儀なくされます。
以後も長寿王の下で全盛期を迎えた高句麗の攻勢を受け続けました。蓋鹵王の時代になっても百済の活動方針は変わらず、倭国とは友好関係を維持し、中国の宋にも入朝しました。
長寿王は百済を討つために、僧侶の道琳を送り込み、碁を好む蓋鹵王に取り入らせ、国庫を疲弊させるべく、多くの土木事業を勧めさせたといいます。いずれにせよ、475年に高句麗軍は漢城を攻め落とし、蓋鹵王を処刑しました。ここで一度、百済は滅亡しています。
再興と二度目の滅亡
熊津に移った百済は、国家の再建に取り組みます。
東城王は新羅と婚姻関係を結び、蓋鹵王の父の代からの同盟関係を強化しました。
東城王の子武寧王の時代から、衰退し始めた高句麗と戦い、勝利することもあったようです。
武寧王の墓所は発見されており、しかも副葬品もきれいな状態で残されています。国立公州博物館に行けば、それらを目にすることができます。特に重要なのは、棺です。その材料は、日本の高野山で伐採されたコウヤマキだからです。つまり、近肖古王以来の日本との友好関係は、この時点でも継続されていたのです。

一方で、百済の目は南方に向かいました。耽羅や伽耶の国々です。耽羅は早々に百済に貢納するようになりました。
百済は伽耶に対して攻勢に出ました。すると伽耶は新羅と政略結婚を行って、支援を求めるようになりました。これに乗じた新羅が金官国を滅ぼすと、安羅国などは百済に助けを求めるようになりました。
百済と新羅の間には同盟がありながらも、緊張感が高まっていきます。
武寧王の子、聖王の時代に泗沘に遷都しました。
そして、弱体化しつつあった高句麗に、551年、新羅と伽耶諸国との連合軍を率いて戦いを挑み、ついに漢山城を奪還します。ところが、その翌年には新羅にその地域を奪われてしまい、554年、管山城の戦いで戦死してしまいます。
せっかく立ち直りかけていた百済ですが、こうしてまた、後退を余儀なくされました。562年には、伽耶諸国は何れも新羅の手に落ちています。

7世紀に入ると、百済はまた再興の兆しをみせます。
武王の時代に力を蓄え、その嫡男義慈王は伽耶地方に進撃し、この地域を奪回しました。また、高句麗と同盟を結んで新羅に当たるようになります。
しかし、追い詰められた新羅は唐と同盟し、義慈王は東西から挟撃されることになります。高句麗討伐に繰り返し失敗した唐は、先に百済を討つと決めてしまいます。それでいながら義慈王は勝利に驕り、国政を顧みなくなったともいわれています。
660年、唐の十万の大軍と、新羅の五万人とが押し寄せてきました。
この時、活躍したのが階伯です。五千の兵力で新羅軍と四度も戦い、最後には戦死しました。
義慈王は捕らえられ、長安に連行されましたが、百済の在地勢力は、なおも国家再興を志していました。
唐の主力が朝鮮半島を離れたのを見計らって、鬼室福信などが反乱を起こしました。倭国もまたこれを支援すると決め、百済の王子である豊璋を帰国させ、先行する援軍を送り、斉明天皇自らが大軍を率いて西に向かいました。
ところが、悪いことが続きました。百済では内紛が起きて、豊璋が鬼室福信を殺害してしまいます。日本でも、九州で遠征の準備をしていた斉明天皇が崩御します。それでも中大兄皇子は遠征をとりやめず、これが663年の白村江の戦いに繋がります。
倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗し、これによって百済は完全に滅亡します。
わからないことだらけ
こういう歴史ということになっているのですが……
ツッコミどころが多すぎます。
まず、初期の歴史は、ほとんどアテになりません。
実のところ、百済の初期の歴史は、高麗時代に書かれたものがもっとも古く、記述内容にもバイアスがかかっている可能性が高いです。
一応、確認した限りでは、建国当初から東方の新羅や、北方の靺鞨……ツングース系勢力との抗争に明け暮れていたようです。ですが、それらについては信憑性があまりありません。
まず、1世紀頃の新羅が当時の百済と戦った、という辺りがまず変です。当時の新羅は斯蘆国、つまり辰韓十二国の中の一つでしかなく、その本拠地は慶州です。間にある金官国など、弁韓や馬韓の有力国家を無視して、わざわざソウルまで遠征したのでしょうか。
また、靺鞨との戦いについても、疑わしいものがあります。楽浪郡が高句麗によって陥落するのが4世紀のはじめですから、それまでは伯済国の北方には中国勢力の他には東濊、沃沮が控えていたはずです。これらの向こうに高句麗、夫余があったはずで、そうなると靺鞨勢力はこれらを押しのけながら南下してきたことになってしまいます。
それから、馬韓五十数カ国の中の一国でしかなかった伯済国が、どうやってこれらの勢力を糾合したのでしょうか。馬韓時代からの三百年間に何があったかは、今のところ、説明のしようがありません。
新羅が自分に倍する百済の勢力を相手に、互角以上に戦えた理由もよくわかりません。その百済にしても、高句麗に比べれば弱小勢力だったようにみえます。
建国神話と本当の出自
そして、わからないのが、百済の建国神話です。
初代の王は温祚とされています。この温祚は、高句麗の始祖である朱蒙の次男です。

かつて朱蒙は北扶余の人々に疎まれて逃れましたが、卒本の扶余王には男児がなく、娘を嫁がせました。そこで二人の男児、沸流と温祚を得ました。ところが、朱蒙が北扶余にいた頃の長男が父を追って卒本までやってきました。これが瑠璃明王で、高句麗の次代の王です。年嵩の異母兄に受け入れられないことを恐れた二人は、南方に逃れました。
漢山に至ったところで兄は海辺に済みたいと言って仁川に向かい、弟の温祚は漢山に留まって都を築きました。後に海辺に行った人々も戻ってきて、ここに百済が建国されました。
なお、別伝では、沸流が百済王の始祖とされています。
この場合、朱蒙は実父ではなく仇台(優台とも)で、北扶余王の子孫ということになります。また、母は卒本扶余王の娘で、後に朱蒙と再婚しました。ですが、やはり先に生まれた朱蒙の息子がやってきたので、二人は南方に逃れて百済を建国します。
つまり、百済は北方の夫余起源であると、そう主張しているのです。後に聖王も、国号を南扶余としています。
しかし、考古学的には証拠がありません。残された土器、それに墓所の形式をみるに、高句麗との共通点は、特にみられないのです。
この辺り、判断が難しいところです。
武田幸男はこれについて「あえて夫餘の出自を主張するのも、あくまで高句麗との抗争を有利に導こうとするために、自己の正統性を対外的に訴える手段であった可能性がある」(山川出版社『朝鮮史』)としていますが、もしそうだとしたら、これは誰に対するアピールなのでしょうか。
少なくとも中国の歴代王朝が、そんなことを気にしていたようには見えません。それが高句麗でも、新羅でも、百済でも、倭国でも、朝貢すれば同じように対応したのです。
聖王がこれを改めて主張したのが6世紀も半ばということを考えると、被支配民に対する訴えかけとも考えにくいです。この時点で、百済の領域はまだ漢城に達しておらず(551年に瞬間的に奪還する)、よって濊貊の領域にはまだ影響力を及ぼしていなかったであろうからです。
いっそ、本当に夫余起源ということはないのでしょうか? 馬韓の言語は、弁辰とは異なると記録されています。魏志辰韓伝より、
『辰韓は馬韓の東にある……馬韓がその東の外れの土地を割いて与えた……その言語は馬韓と同じではない』
しかし、習俗は南方系です。
『玉に似た石や真珠を財宝となし……金銀錦繍を珍重しない』
高句麗など北方系の人々は金銀を好みます。だから同族ではない、とも取れます。
言語の違いについて、百済がいわゆる「征服王朝」である可能性を考えれば、ある程度は矛盾が解消できそうです。
少数の夫余人が南下し、伯済国を建国し、その後、五十もある他の小国家を支配下に収めたとします。すると、中国からやってきた人は、支配者層の伯済国人と話すので、弁辰とは言語が異なると感じます。
また、もともと夫余人に征服された馬韓人が、更に後からやってきた弁辰の人々とは別系統の集団だった可能性もあります。
そして、伯済国を構成する夫余人も、圧倒的少数であったがゆえに土着化して、金銀より真珠を愛するようになった、と……仮定だらけです。
親密すぎる倭国との関係
しかも、こうした疑問を更に深くするのが、日本との関係性です。
百済と日本との同盟関係が、目に見える形で表現されたのは、近肖古王の時代からです。日本書紀にも記録が残っていますが、百済の肖古王(肖古王は二人いて、新しいほうを近肖古王としている)が日本の使者に会い、七支刀などを与えて友好を結んだとしています。
その後も、日本との同盟関係は、揺るいだことがありませんでした。東明王は、漢城陥落の際に救援しなかったことを恨んで、倭国を遠ざけたという話もありますが、武寧王の棺には日本産と思しきコウヤマキ材が使われています。
百済は滅亡直前にも、豊璋という王子を日本に預けていましたが、これが初めてというわけでもありません。阿華王も太子の腆支を倭国に送っていました。おかげで、阿華王の死後、腆支が帰国するまで百済は混乱したほどです。
毎回王子を人質にするくらいなら、百済は日本の属国だったのでしょうか? しかし、それにしては日本側も百済を大切にしすぎています。
新羅と唐の連合軍によって百済が滅んでから、三年も経って、それから白村江の戦いが起きています。現実的に考えて、唐と新羅の連合軍に、倭国が勝てるはずもありません。第一、百済だって友好国でしたが、唐にも遣唐使を送るなどしており、こちらも友好関係ならありました。しかも、出陣前に斉明天皇が崩御しているのにもかかわらず。無茶苦茶です。

これは、ちょっとやそっとの同盟関係ではありません。
百済にしてみれば、祖先を同じくする高句麗と争い、聖王も新羅と婚姻関係があったのに争いました。なのに倭国との関係性だけは守ったのです。
倭国にしても、百済に大勢の日本人が暮らしていたにせよ、無理をしてでも出兵し、敗戦後は多くの百済難民を受け入れています。膨張を続ける唐帝国を食い止めるための緩衝国家が欲しかったとしても、これはやりすぎです。
この親密すぎる関係性ゆえに、百済と倭国は同祖ではないか、と言い出す人までいます。
どう考えても俗説ですが……奈良はナラ、つまり国ではないか、そしてクダラはクンナラ、つまり「兄」「国」が訛ったものではないか、などという論説です。ただ、これは現代韓国語に当てはめた話であって、当時の百済や日本が、そういう語を用いていたかとなると、それは考えにくいものがあります。
というのも、現代韓国語の基礎にあるのは新羅語の語彙だからです。言語が広まる時、文法構造は変わらなくても、単語だけは容易に広まります。日本でも「アルバイトする」などといった外来語の混じった表現を、日本語の文法の中で使いますから、新羅の征服を受けた百済や高句麗の人々も、自分達の文法構造の中で新羅語の単語を受け入れていった可能性は高いです。
しかし、百済が健在だった時代に、わざわざ新羅語の語彙を輸入する理由はありません。
それに、日本の神話体系は夫余人のそれとはまったく異なります。日光で妊娠したりもしませんし、卵から生まれたりもしません。日本人の始祖は、アマテラスとスサノオの誓約によって生まれたとされています。また、三貴子の誕生以前にイザナギは家屋などに関する神々を数多く生み出していますが、これらを見ても、明らかにより南方に起源をもつものと考えられます。

百済の滅亡によって、倭国は大きく揺さぶられることになりました。
天智天皇はしばらく即位せずに国政を執り、即位後はたった四年で死去しています。672年ですから、新羅が朝鮮半島を掌握した時期です。その後、大海人皇子は美濃にて挙兵して、大友皇子を自殺に追い込みました。壬申の乱です。日本の歴史においても稀な、武力による皇位の簒奪でした。
白村江の戦いの結果、倭国は唐帝国を敵にまわしてしまったのです。それだけでなく、新羅もまた、敵対勢力になりました。かつてないほど、危機的な国際情勢の中にあったのです。となれば「トップの首の挿げ替え」が必要になったとしても、不思議はありません。
この時期を境に、正倉院に治められていた野葛が大量に消費されたという記録もあります。これは毒物ですから、当時の日本にどのような陰謀が蠢いていたか、想像に難くありません。

百済は、どのようにして生まれた国だったのでしょうか。
百済と倭国には、どんな関係があったのでしょうか。
結局のところ、真実はわかりません。