新羅の三国統一

韓国
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新羅の建国

 斯蘆国自体は紀元前後から、辰韓の中の一国として存在していました。それがどのような道筋で今の慶尚北道を中心とした地方を掌握したのかは、はっきりしません。

 記録に見える限りでは、377年、中国の前秦に朝貢しています。この時点で高句麗の属国同然の状態だったようです。年代からすると、この少し前に百済の近肖古王が高句麗の故国原王を戦死させていますから、当時の朝鮮半島でもっとも勢いがあったのは百済だったのかもしれません。そんな中、ようやく歴史の表舞台に出てきた新羅は、三国の中では弱小の存在でした。

375年時点の新羅

 また、こうした大国同士の争いの中にあっても、新羅の支配は絶対的なものではなく、旧辰韓諸国は自立的な面も強く残していたといいます。
 そもそも、新羅内部の王権自体が、そこまで強固でなかった可能性も高いです。高句麗や百済のように、単一の王統が続いたのではなく、朴、昔、金と三つの家が順次、王位を引き継いでいったとされます。

 始祖伝説によれば……

『慶州の盆地に、古朝鮮の移民が六つの村を作って暮らしていた。
 ある時、馬の嘶きを聞いた高墟村の村長が駆けつけると、そこに大きな卵があった。
 割ってみると、中から赤ん坊が出てきたので、連れ帰って育てることにした。
 その子供が十三歳になった時、人々は、その出生が神異として君主とすることにした。
 瓢のような大卵から生まれたので、朴を姓とした。これが朴赫居世で、居世干と称した』

『倭国の北東一千里の多婆那国で王妃が卵を産んだ。
 この卵が箱の中に入れられて海上を漂流した。
 最初は金官国で発見されたが、人々はこれを捨て置いた。
 それがまた漂流して、辰韓の阿珍浦で発見された。
 海上を漂っていた際に鵲が付き添っていて、箱を解いて出てきた。
 これをもってその童子は、昔脱解と名付けられた。
 長じて南解王の娘婿となり、後に王となった』

『紫雲とともに天から鶏林に金の箱が降ってきた。
 倭人の瓠公は、木の枝に引っかかった箱と、その下で鳴く白い鶏を見た。
 それで昔脱解に報告したところ、彼は林に向かった。
 箱を開けると美しい童子が現れた。
 成長すると聡明で知略に優れていたので、閼智と名付けた。
 また、金の箱から生まれたので、姓は金とした。
 脱解は閼智を太子としたが、閼智は脱解の子に王位を譲って即位しなかった』

 朴赫居世の子孫が、後に両班としても知られる密陽朴氏で、昔脱解の子孫は月城昔氏です。また、金閼智の子孫は慶州金氏となりました。ここから枝分かれした家系は数多く、安東金氏は後に李朝において権勢を振るいましたし、全州金氏からは金日成の出身氏族とされています。善山金氏は高麗建国時に従軍した功臣、金宣弓を始祖としています。
 もっとも、これらが家名を名乗るようになるのは、6世紀以後のことです。それまでの新羅には、姓自体がありませんでした。

 昔氏の最後の王が崩御したのが356年とされます。よって、外部資料によって確認できる時代の王は、すべて金氏です。
 しかし、有力な家系が入れ替わっていることから考えても、新羅は表舞台に出るまで、ずっと政局が安定していなかったとみることもできます。

 外に対しては従属的な態度をとり、内に対しては支配力を強化するという苦しい局面が、この後、百年近くに渡って続きます。

新羅の発展の時代

 5世紀後半、高句麗でいえば長寿王の治世の後半になってから、新羅はようやく対外進出を始めます。
 まずは江原道方面に向かって、高句麗と争いました。ただ、なんといっても山沿いの狭い土地でもあり、高句麗としては大きな問題でもなかったのでしょう。この間に長寿王は漢城を攻め落として、百済の勢力を後退させています。

 5世紀末、ちょうど西暦500年に即位した智証麻立干の時代になって、ようやく新羅は力をつけ始めます。智証麻立干は王号を改めて智証王と名乗り、国号も正式に新羅と定めました。この頃、少しずつ江原道における支配領域を拡大し始めます。

 次代の法興王の時代、新羅は更なる改革に突き進みます。
 まず、本拠である月城に六部の集団に対しては、十七等の官位制度を設け、地方人には十一等の外位を設定しました。律令制度を整備し、身分制度や法律を改編したのです。ここで注目したいのは、在京人と地方民では、異なる身分制度を適用している点です。本拠の「斯蘆」人とそれ以外の間で、いまだに断絶があることを示しているからです。
 内政の次は外交です。521年、当時同盟国だった百済とともに、中国南朝の梁に入朝しました。それでいながら、百済の伽耶方面進出を座視することなく、522年に大伽耶と婚姻関係を結ぶと、十年後には金官国を滅ぼしました。
 527年には守旧派の反対を抑えて、ついに新羅でも仏教の導入が始まります。高句麗、百済と比べると、百五十年も遅れてのことです。

575年時点では、新羅は半島一の強国になりあがった

 540年に法興王が死去し、真興王があとを襲うと、新羅はついに躍進の時代を迎えます。
 当初は高句麗と争う百済を助けましたが、そのうちに漁夫の利を狙うようになりました。転機となったのは551年前後で、百済の聖王が漢城を奪回する頃、百済からも高句麗からも領地を奪っていきました。そしてついに553年、百済から漢城まで奪ってしまいます。これが決定的な引き金となり、聖王は新羅に戦争を仕掛けますが、管山城の戦いで逆に戦死させます。562年には伽耶を完全に滅ぼし、新羅は一躍、強国となりました。

新羅包囲網と善徳女王

 しかし、出る杭は打たれるのが世の常です。

 真興王の孫の真平王は、半世紀にわたって王位を保ちましたが、それは守勢の時代でした。7世紀初頭の戦いにおいては、進入してくる百済、高句麗の軍勢を撃退するのに成功していましたが、情勢は予断を許さない状況でした。ちょうど中国を統一したばかりの隋の力を借りることを思いつき、611年に高句麗討伐を訴えています。しかし、高句麗が隋を退けてしまうと、更なる攻勢が新羅を襲いました。
 626年、ついに高句麗と百済が同盟を結びます。一方、国内でも反逆が起きるなど、状況はどんどん厳しくなっていきました。

百万の大軍を高句麗に送った煬帝

 そんな中、真平王の死去を受けて、善徳女王が即位します。
 彼女は洞察力に優れた人物だったらしく、それを強調した逸話が残されています。百済の軍勢が西の国境を侵そうとしているのを、池の蛙の鳴き声で察した、というのです。こういうマジカルな物語は後から創作されたものかもしれませんが、新羅初の女王はそれなりに国体を保つのに成功します。

 それでも、三国の争いは激化するばかりでした。
 640年、唐の大軍が西の彼方の高昌国を滅ぼすと、高句麗は危機感を募らせます。そしてついに642年、淵蓋蘇文がクーデターを起こし、栄留王とその臣下を大量に殺害して、権力を一手に握ります。
 ほぼ同時に、百済でも同様の事件が起きました。641年に即位したばかりの義慈王は伽耶地方に親征し、この地域を新羅から奪い取ります。そして、国内で大きな権力を握っていた臣下達を追放し、太子まで廃して、権力を集中させました。
 善徳女王は失地回復のために、あえて仇敵となった高句麗に、王族の金春秋を送って救援を求めました。ところが淵蓋蘇文は新羅と結ぶなど考えもせず、金春秋を人質にして、百済と結んで新羅と戦う姿勢を見せました。

太宗は善徳女王の要請に応じて大軍を派遣したが……

 孤立に追い込まれ、打つ手をなくした善徳女王は、最後の手段に打って出ます。唐の出兵を要請したのです。
 こうして645年、第一次の遠征が行われました。

高句麗は唐の大軍をなんとか撃退した

 しかし、太宗の時代に高句麗が滅ぶことはありませんでした。
 そして、新羅内部でも混乱が起こります。唐は大国過ぎました。太宗は新羅の女王による統治を非難し、唐帝国の一族を王位につけるよう、要求したのです。これに動揺した新羅は、唐に依存するか、唐と同盟しつつも自立を選ぶかで対立が起き、ついには反乱まで起きてしまいます。この混乱の最中、善徳女王は死去します。

百済、高句麗の滅亡

 この混乱を収めたのが、金春秋金庾信でした。金庾信は金姓ですが、金官国の末裔です。

新羅の名将・金庾信

 彼らはあえて真徳女王を擁立し、自立路線を貫くことにしました。
 一方で、唐に従う意思を見せるため、独自の年号を捨てて唐の年号を採用しました。

 相変わらず百済と高句麗は対新羅で結束しており、状況は変わっていませんでした。
 654年、真徳女王の死後に金春秋が武烈王として即位すると、翌年、両国の連合軍が北部国境を侵犯し、三十以上もの拠点を攻め落としました。唐に援軍を要請した結果、高句麗への攻撃が行われましたが、これにも高句麗は耐えました。
 そこでまず、百済から攻撃することになり、660年、蘇定方を総大将とする大軍が派遣されました。新羅もこれに応えて、5万の大軍を西に送りました。これを率いたのは金庾信で、百済の将軍階伯を激戦の末に破り、百済を滅ぼしました。

 武烈王は、今後を見据えていました。勝つだけでなく王権を強化していかなければ未来がないと考えていたのでしょう。戦後の論功行賞においては、中央貴族の私兵よりも地位の低い地方豪族や投降してきた百済人に重点を置きました。王が直接行使できる軍事力を強化するためです。
 しかし翌年、武烈王は唐の高句麗遠征に参加する途中で病に倒れ、死去します。

 その後に続いた文武王も、父の路線を継承します。
 663年に白村江の戦いに勝利して倭国の介入を退けると、668年、淵蓋蘇文亡き後の高句麗を、唐軍の力を借りて、ついに滅ぼします。

唐・新羅戦争と三国統一

 そこから、唐と新羅は、妙な感じになります。
 唐帝国の意図するところは、朝鮮半島の直接支配でした。それぞれの地域に都督府を置き、あくまで唐の官吏としての支配を許すという動きに出たのです。

 670年、唐と新羅は戦端を開きます。すぐに単独では唐に対抗できないと悟った新羅は、高句麗王の庶子を旗頭に、高句麗復興を掲げて遺民を動員しました。それでも唐の力は大きく、三年後には敗北を重ねています。新羅側は謝罪のための使者まで送りました。
 そうしておきながらも、なおも抵抗を続け、676年、ついに唐を破って朝鮮半島から追い払いました。結局、高宗は新羅の独立を認め、冊封して済ませることにしました。一方の新羅も、戦争中も唐の年号を使い続けました。まさに和戦両様です。
 そうして唐の勢力を片付けると、それまで生かしておいた高句麗の残存勢力も滅ぼしてしまいました。こうして三国は統一されたのです。

慶州歴史地域には、この時代の遺物がある

 この時代の新羅の遺物を見たければ、慶州歴史地域を見てまわるのがいいでしょう。
 瞻星台や善徳女王時代のものですし、金庾信の墓所も残されています。

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