統一当初の安定と緊張
朝鮮半島の統一後、新羅はすぐさまその刃を内部に向けました。
国家の創建には協力者が不可欠、しかし力を持ちすぎた貴族層をそのままにはしておけません。文武王の跡を引き継いだ神文王は、岳父を含む大勢の貴族層を、反乱罪で捕らえ、処刑しました。
血生臭いやり方ではありますが、こうして新羅は政治的安定を手にしたのです。
当初は、新羅は日本との友好関係を維持しました。唐を相手に戦争を繰り広げて独立したのですから、後方に敵を作りたくなかったはずです。一方の日本も、天皇の代替わりまでして、親新羅外交に切り替えます。どちらも唐帝国という巨大な脅威があったからです。
しかし、7世紀末から両国とも唐との関係が改善されてくると、友好的な関係を維持する必要性が薄れてきました。
それはこの時期、この地域に新たなプレイヤーが出現したからでもあります。
渤海の建国
中国北東部には、高句麗の遺民が移住させられていました。
いつの時代でも、中国という肥沃な地域は、周辺の異民族の侵入によって奪われてきたのです。とりわけ、北方の異民族は、中国にとって脅威でした。営州は、その最前線だったのです。言うなれば、北方異民族のごった煮でした。契丹人、靺鞨人、高句麗人と、そしてもちろん中国人と、さまざまな人種が共存していたのです。
新羅の統一より二十年、時は武周時代、皇后だった武則天が唐の帝位を手にしていた頃のことです。契丹人の李尽忠と孫万栄は、営州都督の横暴に耐えかねて、反乱を起こしました。数万の兵が集まり、河北を荒らしまわり、八月には中国軍を大破します。
この機会に乗じて、乞乞仲象と乞四比羽も抑留先の営州より逃れ、高句麗の故地を目指しました。武則天は乞四比羽を許国公に封じて懐柔しようとしましたが、拒否されたために軍を派遣しました。
契丹は四年後には敗北し、鎮圧されました。一方、乞乞仲象と乞四比羽も二年後には討たれています。ですが、いったん中国から逃れた集団は、大祚栄の下に結集して、中国軍を破って自立を果たしました。大祚栄は都城を築き、自国を「震」と号しました。

西暦705年、武則天がクーデターにより退位し、唐は中宗を復位させました。
大祚栄は唐の臣下としての地位を受け入れ、713年には渤海郡王の称号を受けて冊封されました。
渤海の誕生です。
渤海国の構成する人々は何者だったのでしょうか。
高句麗の遺民に由来するという説もあり、また渤海の領土が大同江から鴨緑江に至る、現在の北朝鮮の領土に重なっていることもあって、韓国・北朝鮮では、彼らもまた、朝鮮民族の一部であるとするのが定説です。
一方、領土のほとんどの部分がツングース系の居住地であったことなどもあり、どちらかというと靺鞨人の国家ではないかという説が日本では有力です。
私見ですが、これをきれいに切り分けることなどできないのではないかと考えています。
そもそも高句麗人、夫余人が何者だったのか、それも明らかではありません。古い中国の記録によれば、夫余人と粛慎人が別種の言語と風習を持っていたという記録はあります。ただ、その居住地は隣接しており、人の交流はあったことでしょう。そもそも夫余人がツングース系であろうとする説もあり、してみれば高句麗人にとっての靺鞨人とは、この時点で大きな差異のない集団だった可能性もあります。
渤海で用いられた言語は、というと、当初はやはり靺鞨人の言葉を用いていたそうです。但し、すぐに漢化し、漢語を話すようになりました。日本の使者も、渤海では漢語で意思疎通をしています。

いずれにせよ、新羅国内に残された高句麗人と、渤海に吸収された高句麗人は、それぞれ別の道を歩んでいくことになりました。
新羅の全盛期
渤海が力を伸ばすと、唐や新羅にとっては辺境の危機となりました。732年には唐と渤海の間で紛争が起きており、そこに新羅も援軍を送っています。8世紀を通じて新羅は渤海との軍事的緊張の中におかれることになりました。
一方の渤海としては、孤立を防ぐために、日本に遣使するようになりました。渤海と敵対する新羅と、渤海と友好関係を結ぶ日本、という関係になったのです。

それでも8世紀半ばに、新羅は最盛期を迎えます。
景徳王の下、全国の地名や中央官庁の名称も唐式に改め、郡県制を再編して支配を強化しました。あの仏国寺が建造されたのも、この時期です。

また、この時期より少し前、文武王の時代ですが、海東華厳宗の創始者である義湘が、浮石寺を建立しました。ちょうど唐軍を撤退させた頃に完成しています。

新羅の時代には、仏教がいよいよ隆盛を極め、数々の名僧が登場しました。その代表がこの義湘です。善徳女王の時代に出家し、百済滅亡の翌年に唐に留学に出かけ、十年後に帰国しました。それから華厳宗を広め、8世紀初頭に世を去るまで、多くの弟子を育てました。
この時代には多くの名刹が産声をあげました。例えば関東八景の一つに数えられる洛山寺も、その一つです。
新羅の社会
ここで新羅の社会についても触れておきましょう。
まず、新羅における身分は、骨品制によって定められていました。骨とは生まれのことで、つまりは出身氏族によって品位が決まるとするものでした。
最上位にあるのは聖骨で、これは父母とも王族に属するものをいいました。これに続くのが真骨で、王族層の血統にあるものが該当します。それ以外では、一頭品から六頭品まで順序付けられていました。
この骨品次第で、就任できる官位の上限が決まり、衣服、車馬、家屋、調度品など、さまざまな面での制限が課せられました。この中には、通婚可能な範囲も含まれています。
聖骨は善徳女王を最後に途絶えたので、以後は真骨から王が出るようになりました。
この制度自体は三国統一前から存在していましたが、百済や高句麗出身者を各地の官僚として採用する際、当初は身分差と権限を管理する上で役立ったのかもしれません。しかし、生まれが役目を決めてしまう仕組みゆえに、だんだんと時代を経るに従って上層部は腐敗し、上にいけない真骨以外の地方官僚は不満を抱くようになっていきます。
9世紀の反乱の様子をみると、新羅は国民の統合には成功していなかったようにも見受けられます。というのも、反乱が起きる際には、旧百済の領域がまとまって立ち上がるなど、明らかに地域性が見られるからです。
その意味では、新羅は朝鮮半島を「統一」したというより、「征服」したと考えるべきかもしれません。この時点では、新羅人にとって百済人も高句麗人も、異国の人々だったのです。
また、新羅には花郎という仕組みがありました。
ズバリこの名前で韓国ドラマが作られたりもしていますが、これは青年の集まりで、原始社会における男子の集団を受け継いだものとされています。もともとは戦闘技術や、部族の中で必要な知識、教養を学ぶ場所でしたが、真興王の時代に国家制度として整備されました。
これによって、花郎は貴族の子弟の教育機関兼社交クラブ、かつ戦闘集団として新たに生まれ変わりました。
衰退と内乱の9世紀
それでも、目立たないところで衰退が始まっていました。
神文王の下で廃止された禄邑制が758年に再開されたのです。これは、もともとは特定の地域の支配権を官僚に与えることで俸給の代わりとする仕組みでした。神文王の改革とは、いわば財布の紐を国王が一元管理して、集金と分配を自由に行うためのものでした。これが廃止された事実は、国王の権益の後退を示しています。声の大きい貴族達が利権を争っていたのでしょう。
景徳王の子の恵恭王が跡を襲う頃には、王族同士の争いが顕在化してきました。780年、恵恭王は王妃と共に殺害されてしまいます。武烈王の直系は途絶え、以後、王都では反乱が繰り返されるようになり、簒奪が頻発するようになりました。以後、新羅滅亡までの百五十年間のうちに即位した王が二十人もいるのです。
9世紀からの百年間は、朝鮮半島においては混乱の時代でした。
新羅が大同江より南を支配し続けていたとはいえ、飢饉が繰り返し発生し、盗賊が跋扈するも討伐に至らず、反乱が続発しました。
恵恭王に続いて哀荘王が暗殺され、憲徳王が立つ頃には、新羅の統制力は、かなりのところ、失われてしまっていました。
816年の飢饉の際には、多くの流民が国外に逃れています。819年には各地で武装蜂起が起き、これは辛うじて鎮圧したものの、その三年後に金憲昌が反乱を起こすと、旧百済の地域はほとんどがこれに呼応しました。しかも悪いことに、反乱そのものは一ヶ月で制圧できたものの、その際に活躍したのはほとんどが貴族の私兵や花郎でした。つまり、正規軍が機能していないのです。
このような状況の中、憲徳王は反乱に加担しなかった地域については租税を免除するといった形で対応しました。あまりに状況が厳しくて、そうせざるを得なかったのでしょうが、これでは実質、慶州近辺以外を統治できないと言っているのと同じです。
続く興徳王は、飢饉の際には自ら巡幸して人民に穀物を与えてまわったといいます。
また、新羅の昔からの身分制度である骨品制に基づいて、奢侈を禁じました。衣服、車馬、家屋、調度品など、生活全般に関わる厳格な統制です。風紀紊乱を抑止し、身分制の再編、強化を目指したものの、成果は挙げられませんでした。
そこから三代に渡って、王が次々変わります。一人目は自殺。二人目は一人目を自殺に追い込んで王位に就いたものの、別の王族が新羅の海軍を握る張保皐に頼って反撃、これを討伐。そうして王になった三人目も、半年程度で病に倒れ、急死。
その太子、文聖王が即位するも、張保皐の娘を妃とする約束を反故にしたため反乱を招いてしまいます。他にも、あちこちで反乱が発生していて、中には反逆者を捕らえることさえままならず、収拾がつかなくなりました。

9世紀の末に、新羅最後の女王が即位しました。真聖女王です。彼女は、新羅末期の頽廃を代表する人物となってしまいました。
もともと彼女は金魏弘と男女の関係だったのですが、彼が死去すると、今度は美少年を何人か引き入れて、姦淫に耽りました。それだけならまだしも、彼らに要職を任せてしまい、結果、ただでさえ傾きかけていた新羅が、ますます衰退してしまいました。
この時代に各地で反乱が続発し、ついに後三国時代が始まってしまいます。

10世紀初頭に、東アジアはまたも地殻変動の時を迎えます。
中国に君臨した唐帝国は907年、朱全忠の手によって滅ぼされます。
海東の盛国とまで呼ばれた渤海も925年、耶律阿保機率いる契丹の侵入を受けて滅びます。
そして新羅もまた、その後を追うように、935年に滅亡することになるのです。