高麗の歴史

韓国
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後三国時代

 9世紀末、新羅の真聖女王の時代に、地方で多くの反乱が発生しました。

 旧百済の地域では、甄萱が立ち上がりました。現在の全羅南道に拠点を置き、勢力を拡大。その後北上して全羅道のすべてを掌握するに至りました。彼は後百済を建国しました。
 旧高句麗の地域でも、江原州で梁吉が蜂起しました。その下で頭角を現したのが金弓裔で、彼は現在のソウル近辺を攻略し、大きな勢力を築きました。梁吉は弓裔の躍進を恐れて娘婿とし、それでも安心できずについには軍を起こしますが、逆に打倒されてしまいます。
 弓裔は十世紀初めに開城に遷都し、後高句麗を建国、その後国号を摩震泰封と改めました。

10世紀初頭の朝鮮半島

 弓裔は自らを弥勒菩薩と称して人心を集めようとしました。当初の弓裔は部下に利益を公平に分配するなど、行いの面でも好ましかったのですが、徐々に猜疑心が強くなり、部下を虐殺するようになりました。
 そのため、部下の王建に人心が集まり、918年、弓裔は追放されました。翌年、王建は国号を高麗と改めました。

 弱体化した新羅と違って、後百済と高麗には勢いがありました。
 王建は、後百済の圧迫に苦しんでいた新羅と同盟を結びました。すると926年、甄萱は新羅に攻め入り、慶州を陥落させました。そして景哀王を自殺に追い込み、その王妃を陵辱するという暴挙に出てしまいました。後々まで新羅の地を支配するつもりであれば、人々に恥辱を与え、恨みを買うようなことをするべきではなかったのかもしれません。
 その三年後、高敞で高麗軍に破れてからは、後百済は弱体化していきました。後継者争いで甄萱は、息子の甄神剣にクーデターを起こされ、幽閉されます。そこから脱出して王建の下に降り、936年には新羅も戦わずして降伏を受け入れました。王建は、残った後百済を一利川の戦いで破り、ここに後三国時代は終わります。

高麗の建国者・王建

 王建は、対決よりも融和を選ぶ傾向があったようです。
 降伏した新羅の敬順王に娘を嫁がせて正承公に封じました。自らも婚姻によって地位を磐石にしようと、二十九人もの夫人を持ちました。
 またこの時期、渤海の滅亡に伴い、多くの遺民が高麗に流入してきました。中には渤海王の世子である大光顕も含まれていました。王建はこれにも王族同様の待遇を与えて受け入れました。
 ここに朝鮮半島は、一時の安定を得るに至ったのです。

現代に続く歴史の始まり

 高麗の建国は、現代の朝鮮半島に繋がる出来事となりました。
 南北朝鮮を含む領域とほぼ重なる範囲を支配領域とし、また中国の風習に染まりすぎないよう、一方で契丹などの異民族にも服しないよう、他勢力と距離を置くように言い残しています。また、文治主義に重きを置き、仏教を大切にし、全羅道の人間をあまり登用しない方針を定めました。

 これらは、現代の韓国にも影響を与えています。
 以後、朝鮮半島は中国ともロシアとも異なる独立した文化を持った地域として機能しました。また、在日韓国人の一世世代の人の中には「全羅道の人間は俺達とは違う」と公言する人もいたそうです。仏教は李朝によって衰退することになりましたが、それでも現代までいくつもの大寺院が生き残っています。

高麗時代は、続く李朝に比べ、女性の地位の高い社会だった

 また、この時代に両班官僚制度が生まれました。
 初期においては、高麗からの土地分配は、豪族などの生まれによっていました。しかし、徐々に改革が進められ、10世紀末には官品、つまり役職だけが給与支給の基準として定められるようになりました。
 これは、高麗の中央集権化を強く推し進める力となりました。同時に、社会の流動性を高め、古代より残存していた諸民族間の隔たりをなくしていきました。
 というのも、庶民のほとんどが農民で、彼らは「良人」と呼ばれました。良人にも、科挙などを通して両班に登用される機会があったからです。おりしも高麗には、北方から中国人や契丹人、女真人など、さまざまな民族集団からの流民が押し寄せていました。彼らもまた、高麗の社会の中に組み込まれていったのです。

高麗の栄華

 高麗では、学問が大いに栄えました。
 儒教の私学がいくつも現れて競い合い、崔允儀「詳定古今礼」を撰定して高麗の礼制を集成しました。金富軾は、朝鮮半島初の正史として「三国史記」を編纂しました。

三国史記

 しかし、なんといっても最も盛んだったのは仏教です。

 この時期、日本でもそうですが、朝鮮半島でも禅宗が流行しました。義天天台宗を開き、伝統的な仏教の立場から禅宗との調和を思索しました。後には知訥曹渓宗を開き、禅宗の立場から既存の教えとの調和を目指しました。
 一方で、従来の国家鎮護を目的とした仏教も盛んでした。高麗では「燃燈会」「八関会」が盛大に開催されました。正月十五日の燃燈会では、全国の寺で灯火を掲げて、歌舞を交えて国家の太平を祈願しました。八関会は十一月のはじめに、土俗信仰の要素も取り入れつつ、国王朝賀の儀式を執り行いました。ここには宋や耽羅、女真、それに日本人まで招かれました。

 また、仏教文献の収集と刊行も盛んに行われました。「高麗版大蔵経」は、この時代を代表する朝鮮半島の文化遺産であり、国家事業でした。大蔵経とは仏陀の教えとその注釈、そして僧侶の生活規範についてまとめて記したもので、それを木版印刷するための版木が彫られたのです。実に六十年もの時をかけて制作されましたが、不運にも、後のモンゴル軍侵入の際に、すべて失われてしまいました。
 ですが、モンゴルの三度目の侵略を前に、仏の加護を得ようとして復刻に着手され、1251年に完成しました。今でも海印寺には、高麗版大蔵経が残されており、世界文化遺産に登録されてもいます。

大蔵経を今も保存する海印寺

 また、高麗といえば忘れてはならないのが高麗青磁です。
 中国でも、その繊細な出来栄えは高く評価されました。

高麗青磁

北方からの相次ぐ侵略

 しかし、社会的、文化的な発展とは裏腹に、高麗時代の大部分は苦難の歴史そのものでした。
 当初、高麗の周辺の国際情勢は、不安定ではあったものの、国家を致命的に脅かすものではなかったのです。しかし、960年、中国の五代十国時代が終わり、宋帝国が成立する頃から、北方の脅威が明確になってきます。
 文治主義を掲げる宋は、軍事的には強大とはいえませんでした。そのため、高麗は契丹の圧力を受け止めなくてはならなくなりました。

五代十国時代末期の東アジア

 993年、ついに遼(契丹)が高麗に最初の襲撃を行いました。この時、結果として領土の割譲などはせずに済んだものの、高麗の朝貢相手を契丹に変えなくてはいけなくなりました。
 ところが1010年から、二度目の遼の侵入を受けました。この時は開京が打撃を受け、宮殿から庶民の家々まで、どれも灰燼に帰しました。それで中国の助力を頼ろうとしましたが、宋にそんな力などありませんでした。なにしろ澶淵の盟といって、1004年に宋から遼に毎年銀と絹を差し出す条約を結んでいたくらいなのです。
 1018年に、遼は三度目の侵入を試みました。この時、やっと負け続きだった高麗が一矢報います。姜邯賛は亀城の戦いで大勝し、契丹兵のほとんどは生きて帰れませんでした。
 それでも契丹の圧力には耐え切れず、ついに1022年、高麗は再び遼に膝を屈しました。

 これで終わったのならよかったのですが、百年も経たないうちに、またもや北の国境が騒がしくなってきました。
 契丹人は宋からの貢納によって富を得て、快適な生活を享受するようになっていました。安楽に流れた彼らは、女真人の台頭を抑えることができませんでした。高麗は危機感を覚えて、国境を越えて軍事介入しましたが、すぐさま二回も敗北して引き下がりました。
 この敗戦を省みて、高麗は軍制改革を行いました。騎兵、歩兵、僧兵からなる別武班を編成して1007年、国境の長城を越えて拠点を設けましたが、たちまち女真の攻撃を受けて撤退しました。
 結局、1115年、金帝国が成立し、十年後には遼を滅ぼすに至りました。更に二年後には靖康の変が起きて、宋の皇帝を拉致してしまいます。1128年、高麗は金に臣属して、この状況を乗り切りました。

12世紀初頭の東アジア

武臣政権の始まり

 しかし、国境の外が騒がしくなれば、今度は国内が荒れるものです。
 まず、1126年に、李資謙が反乱を起こしました。慶源李氏は門閥貴族で、二代に渡って王家の妃を出す外戚として勢威を振るいました。これに反発した仁宗の殺害を試み、仲間割れをした挙句に最後は鎮圧されてしまいました。それでも、高麗を大きく揺さぶる事件だったことは間違いありません。
 1135年には、僧侶の妙清が反乱を起こしました。これは「王気が西京にある、開京から西京に遷都せよ、さすれば高麗は金国さえ隷属させられる」という主張があり、それが拒まれた時に、妙清を旗頭に遷都派が蜂起したものです。この時の反乱軍は、西京人ばかりを登用したそうですから、要は利権争いありきだったのでしょう。後に「三国史記」を書き残す金富軾が軍を率いて、鎮圧することになりました。

 仁宗の後継者となった毅宗は、暗君でした。普通、母后は何が何でも自分の子を次代の王にしようとするものなのに、能力不足ゆえに廃太子すら検討したといいます。案の定、即位後は遊び呆けてろくに政治を省みず、武官を軽んじて土木工事に巨費を投じました。そのため、不満を感じた武臣の李義方らが立ち上がり、毅宗を廃位してその弟を即位させました。
 以後百年あまりもの間、高麗は武臣政権によって統治されていくことになったのです。しかし、その最初の四半世紀は、有力な武臣が権勢を争うばかりで終わりました。この時期から、朝鮮半島の南北で反乱が続発するようになりました。

 混乱の続く武臣政権時代に一定の安定をもたらしたのが、崔忠献でした。
 まず、国家としての政治能力を立て直すために文人を私邸に集め、「政房」を設けました。私兵組織「都房」を拡張し、豊富な財産でもって私兵数万を揃えました。その上で教定都監を創立し、その長官に自ら任命されました。

モンゴル襲来

 しかしこの時、高麗にとって最大の脅威が迫ってきていたのです。

 1211年、チンギス・ハンは金帝国を相手に戦争を始めました。その影響で、金の残党や契丹人が高麗領内に侵入し、一時は開京にまで侵入する事態に陥りました。1219年、高麗軍は越境してきたモンゴル軍と協力し、契丹を江東城において殲滅しました。
 これをきっかけに高麗はモンゴルと交渉し、朝貢する関係を取り結びました。しかし、そんな中途半端な服属を許すモンゴルではありません。1225年にモンゴル側の使者が不慮の死を遂げたのを口実に、1231年、オゴタイ・ハンは大軍を送り込みました。開京はあっさり陥落し、高麗は降伏しました。

オゴタイ・ハンは高麗に戦争を仕掛けた

 武臣政権の崔瑀は、抵抗を考えていました。陸戦に強いモンゴル軍も、海戦であればどうか。それで首都機能を江華島に移転した上で、モンゴル側の行政官を虐殺しました。そのために翌年、二度目の来襲が起こります。ですが、今度は僅かな距離にある江華島を攻め落とすことができず、モンゴル軍は撤退を余儀なくされました。
 ならばと、金帝国を滅ぼしたオゴタイ・ハンは、持久戦で挑むことにします。1235年から三年間に渡って、モンゴル軍は全羅道、慶尚道を中心に、高麗の穀倉地帯を襲撃し、焼き払っていきました。結局、一時的に停戦はしたものの、これで終わるはずもありませんでした。
 1247年にも侵攻が起き、同じような展開になりましたが、この時はグユク・ハンが崩御したため、戦争は中断されました。

 モンケが四代目のハンになると、面倒臭いことこの上ない高麗を何とかするために、江華島から出るよう、強く要求しました。ですが、崔氏武臣政権の三代目を担う崔沆は、あくまで江華島に留まることを選択しました。
 そのために、1253年からまたもやモンゴルの侵攻が始まります。一度は降伏した高麗ですが、なおも上層部が江華島に留まったので、更にそこから五年間に渡る蹂躙が始まりました。
 最終的に、崔竩を殺害した高麗側が降伏することで、モンゴルの攻撃は終わりました。そして、この時以来、百年近くに渡って元朝の支配下に置かれることになったのです。

 戦後間もなく、元朝においてはフビライが、高麗では元宗が即位しました。
 ですが、反元勢力は一朝一夕には消えませんでした。武臣政権が親元勢力によって崩壊させられた後、その直属の戦力であった三別抄が反乱を起こしました。珍島、巨済など、海岸地方や離島などに拠点を築き、モンゴル軍に抵抗しました。
 それも1273年には鎮圧が完了し、最後の拠点となった済州島をはじめとした各地に総管府が置かれ、元朝の直接支配を受けるようになりました。

元朝支配下の高麗

 なお、耽羅は12世紀初頭から既に高麗の直轄領となっていました。ただ、まだ耽羅固有の文化は残り、地元の有力者も影響力を残していました。この時に済州島には、モンゴル軍の馬が多数持ち込まれました。牧畜に関する言葉にはモンゴル語の語彙が残っています。

元朝支配下の高麗

 それから高麗王は、屈辱栄光を同時に味わい続けることになります。

 まず、屈辱のほうから説明すると……

・多大な負担であったにもかかわらず、フビライの日本遠征に協力させられた
・王太子は必ず元朝の宮廷に出向いてハンに仕えなくてはいけなかった
・王が死んだ後の廟号には、必ず「忠」がつけられた、王なのに忠節を尽くす立場だった
・国内の高麗官制を廃止して、元朝と職名が重ならないように配慮した

 栄光のほうも無視はできません。

・元朝皇室から、必ず王妃が出された、つまり高麗王は元朝の「駙馬」となった

 元の皇帝の娘婿で、モンゴルの族長の一人としての立場を手にしたのです。結果として、高麗の国際的地位は高まったといえるでしょう。

 ただ、なにしろ元の権力は強大すぎました。そのために、高麗の宮廷はしばしば振り回されることになりました。
 高麗王はしばしば自国と元の間を行き来しなくてはならず、それぞれの場所で党派が形成され、それが王と太子でも利害関係の食い違いに繋がり、内紛を招きました。父と子でありながら、互いに相手を廃位して即位したのです。こうした形で重祚が何度も繰り返されました。
 また、権臣の中には、直接に元朝の重要人物と姻戚関係になる者も出てきたため、王を凌ぐ影響力を持つ奇氏一派の台頭を招くことにもなりました。

恭愍王の改革

 14世紀半ばになって、元朝の支配力が弱まってくると、高麗にも変化が起こります。
 北方からは中国の紅巾賊が流入し、南方からは海を越えて倭寇が攻め寄せてくるようになっていました。

恭愍王

 この多難な時期に王祺は元朝の後押しを受けて高麗王の地位に就きました。後の恭愍王です。
 彼は情勢を見て、果敢に決断しました。1356年、奇氏一派粛清して軍備を増強、それに伴い李成桂崔瑩ら有能な軍人を登用して、元の軍事拠点を攻撃しました。僅か数ヶ月のうちに、元との繋がりを断ち切ったのです。
 そこからしばらくは和戦両様、元に遣使しつつ、新たに中国を制覇した明朝とも通行していましたが、1369年、洪武帝・朱元璋が高麗に遣使すると、完全に元朝との関係を切り捨てました。

 しかし、その頃には既に恭愍王は心身を病んでいたのかもしれません。
 その妃は魯国公主、つまり元の魏王の娘でした。あれだけ元朝に敵対した彼ですが、彼は元の朝廷で幼少期を過ごし、元の女性と結婚していたのです。しかも、その妻に深い愛情を感じていたらしいのです。そのためか、魯国公主が出産時に死亡すると、政治に対する意欲を失い、僧侶の辛旽にすべてを丸投げしてしまったといいます。辛旽は権勢をほしいままにし、最後には王の暗殺まで企てた挙句に処刑されます。

 その後も恭愍王の改革は思うようには進まなかったようです。
 最後は親元派の手によって暗殺されてしまったのです。

威化島回軍

 恭愍王の死後、残された李成桂崔瑩は、各地で倭寇を討ち、ようやくにして高麗に安定をもたらしました。
 しかし、続いて即位した禑王は名声と武力を持ちすぎた李成桂に不安を抱いていたのかもしれません。

李成桂

 洪武帝が高麗に対して、元の時代の旧領地を返還するようにと要求してきたのです。
 親元派が力を取り戻した高麗の宮廷では、反元朝派として活動してきた李成桂は、目障りな存在でした。そこで明朝の要求を退け、むしろ遼東半島に攻め上るべきと方針が決定されました。
 李成桂は、あまりに不利な戦いであるがゆえに、これを撤回するよう求めました。

「高麗は小国で、大国の明を相手取るべきではない。また、今は夏で、戦争を始めるのに不向きだ。倭寇に背後を取られる危険性もある。既に雨も多く、こうした中での行軍は、装備の劣化と疫病の蔓延を招く」

 ですが、こうした反論は受け入れられず、李成桂は軍を率いて北上しなくてはならなくなりました。しかし、鴨緑江河口の威化島に到着したところ、案の定、梅雨時の大雨のせいで増水して渡河できず、日に日に逃亡兵が続出する状況になってしまいました。
 ここで彼はついに撤退を開始しました。命令を受けておきながら無断で転進を始めたのです。それは即ち、反逆を意味しました。

 この時点では、恐らく李成桂自身には、高麗王に取って代わる意志などなかったように見受けられます。しかし、結果としてこの「威化島回軍」によって高麗は滅亡し、李氏朝鮮の時代が始まることになるのです。

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