李氏朝鮮の歴史

韓国
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なりたくて王様になったわけじゃない

 ところで、恭愍王は王建の家訓を忘れていたのでしょうか。

「全州人はあまり登用するな」

 李成桂は全州李氏です。でも、当時はそれどころではなかったのでしょう。
 彼自身、まさか自分が王になるなんて、思ってもみなかったのではないでしょうか。

 李氏朝鮮の太祖となった李成桂の生涯を見渡すと、人生、出世すればいいものでもないと思い知らされます。

李成桂

 高麗末期の恭愍王が反元政策を実行に移したのが1356年。李成桂の父、李子春は自ら進んで恭愍王に協力し、親子揃って武勲を重ねていきました。
 1361年には、中国から押し寄せた紅巾軍が首都開京を占領する事態に陥りましたが、李成桂は先陣切って戦い、名声を高めました。また、元軍相手にも勝利を重ね、後には倭寇討伐にも功績をあげました。
 しかし、恭愍王の暗殺によって高麗は再び親元政策に方針がブレてしまい、おりから明朝の領土返還要求もあって、李成桂は望まない対明戦争の司令官を引き受けなくてはならなくなりました。禑王は最初から勝利など期待しておらず、これによって李成桂らの勢力を弱体化させるのが主要な目的だったのです。
 それがわかっていても、命令があった以上は進軍しなければなりません。しかし、鴨緑江の威化島近辺を渡ろうとした時、大雨のために何日も足止めを食ってしまい、そのために李成桂は覚悟を決めてしまいます。

 命令を無視して、撤兵する。世に言う「威化島回軍」です。
 軍を預かっておきながら勝手に撤退するのです。命令違反ですから、謀反にも等しい行為です。まして禑王らは親元政策で固まっており、李成桂を許す余地など考えられませんでした。
 これを知った崔瑩は迎撃のために兵を招集しようとしますが、ろくに頭数を揃えられなかったといいます。結局、李成桂の軍は開京を制圧してしまいました。

李成桂に敵対した崔瑩は、私心のない人物として知られる

 腹をくくった李成桂ですが、この時点でもまだ、簒奪の意図はあまりなかったように見受けられます。政敵だった崔瑩についても処罰を要求し、とりあえず流刑にしただけで、禑王もその地位から引き摺り下ろしたりはしていません。
 それでも李成桂を恐れる禑王らの攻撃が止む気配はなく、禑王とその子を始末して、王瑤(恭譲王)を王位につけました。
 しかし、ここまで実権を握ってしまうと、周囲は黙っていません。そのうち王族の反撃もあるかもしれませんし、もっと出世したいという欲も出てきます。結局、恭譲王も譲位の後に殺害され、王氏一族もまとめて始末されました。
 1392年をもって、「成り行き」で李朝の歴史が始まったとされます。

明朝初代皇帝・朱元璋

 そんな李成桂ですが、即座に王を名乗ったわけではありません。すぐさま明に遣使して外交関係の継続と国王交替の承認を求めましたが、その時の彼の肩書きは「権知高麗国事」……仮初の国王としたのです。
 翌年、明朝から「国号を変えるように」言われて、和寧朝鮮の二つの候補を挙げ、後者を明朝が推したので、これを国名としました。ですが、李成桂はずっと権知国事を名乗り続けました。李朝の支配者が正式に王となったのは1401年、既に李成桂自身が退位した後です。

 こうして朝鮮半島の支配者になった李成桂ですが、その晩年は不遇でした。

 長男の李芳雨が1393年に死去していたため、後継者に八男の芳碩を指名していたところ、建国に功績のある五男の芳遠反乱を起こして、芳碩を殺してしまったのです。
 これに嫌気が差した李成桂は王位を捨て、次男の芳果に継がせました。芳果(定宗)王になどなりたくなかったらしく、辞退に辞退を重ねたのですが、結局、芳遠の意向もあって王にされてしまいます。
 ですが、芳遠の独裁に危機感を抱いた四男の芳幹は私兵を率いて市街戦を展開、鎮圧されます。これを見た定宗は、そのうち自分達も殺されると悟り、芳遠に王位を譲りました。これが太宗です。

 なりたくもない王になって、子供達の殺し合いを見なくてはいけなかった李成桂の内心はどんなものだったでしょうか。
 優れた武人として勇猛なことで知られていた一方、王になる前から敵対者にも苛烈な処罰は望まなかった温厚な人物でもありました。出家こそしなかったものの、仏教に篤く帰依し、内乱で死んだ息子達の供養のために念仏三昧だったといいます。

李朝の繁栄

 李成桂の気持ちはどうあれ、太宗世宗の時代に、李朝は安定期を迎えます。

 太宗は王権を強化し、独裁を推し進めるために、功臣や王族が持つ私兵を廃止して、直属の三軍府に兵権を集中しました。内政に関しては、これまた功臣達が力を持っていたため、政務を禄分割して、それぞれの責任者が直接、国王に報告する「直啓」の制度を設けました。
 また、正式に漢城(ソウル)を首都と定め、城壁を築造し、崇礼門(南大門)興仁門(東大門)などの城門を建造させました。その内部には景福宮などの宮殿、宗廟などを配置しました。

光化門前の世宗大王像

 続く世宗の時代には、学問が栄えました。
 儒教による王道政治を目指して、唐の制度に見習って集賢殿を新設し、有能な文官を集めて研究に専念させました。

 では、仏教は……こちらは、儒教の台頭の裏側で、弾圧されました。既にこの時代にいくつもの寺院が廃止されました。それぞれの宗派ごとに存続を許された寺院の数が限定され、その制限は年々厳しくなっていきました。
 背景には、僧侶の財力と権力が大きくなりすぎた高麗時代についての反省があります。妙清の乱のように、しばしば有力な仏僧が政治に介入し、ときには武装蜂起にまで至るケースがあったため、彼らの私財や奴婢を没収して、力を抑えることとしたのです。

 科学の発展もありました。
 高麗時代に存在した金属活字技術が継承される一方、世界で始めて測雨器(雨量計)が全国に配置されました。景福宮には天文観測施設を設置し、渾天儀(天球儀)や日晷(日時計)、自撃漏(水時計)などが製作されました。

 しかし、何より彼を有名にしているのは、訓民正音(ハングル)の制定です。これが現代の韓国語の文字の基礎となりました。17世紀初頭の「洪吉童伝」は、この訓民正音で書かれた最古の小説とされています。

ハングルは、後に燕山君の時代に禁止され、公用文字としては衰退する

 対外的な活動も、この時代には活発に行われました。

 中国との関係では、事大の礼として毎年、朝貢使節を派遣しました。明朝は海禁政策をとっていたため、貿易の機会はこれしかなく、朝鮮側は明朝が期待する以上に積極的に使節を送ったようです。ただ、そのために馬匹や金銀の調達には多大な負担がかかったといいます。
 一方、西日本とはもともと交流がありました。ただ、倭寇による被害も収まらなかったため、李朝は初期から足利幕府に倭寇への禁圧を強化するよう、求めています。15世紀に入ると、太宗は釜山と熊川以外の港での通商を禁じ、その際にも文引という渡航証明書を要求するようになりました。正規の手順で貿易しないのは倭寇ということです。
 そのうちに貿易は活発になり、朝鮮側に常時滞在する日本人(恒居倭人)も出てくるようになりました。対馬の宗氏には文引の発行権を与え、以後、明治時代に至るまで、対馬が日朝貿易の中心的役割を果たすこととなりました。
 足利義満が明朝によって日本国王に冊封されると、朝鮮からは通信使が送られるようになりました。

社会の硬直

 一方で、李朝は硬直の時代でもありました。

 両班から奴婢まで、ほとんどの人の身分は、生まれに左右されることとなりました。高麗時代には、良人(=庶民)は科挙に合格することで両班になることができ、また奴婢も片親が良人なら良人になることができたのですが、その制度は廃止されます。

 まず、都市部を統括する郷吏の地方支配力を弱体化させるために、彼らの両班になる道を閉ざしました。科挙の受験制限を設けたのです。もちろん、地方支配のために派遣される両班も、自分の出身地には赴任できず、また赴任期間も制限されました。
 こうした中で、郷吏は地元に密着し、両班からは蔑視されたものの、地域では有力な存在になっていきました。そうした地方有力者同士は、互いに通婚関係を結んで影響力を維持していきました。
 事実上、両班になれる家系は農村の有力者に限定されていきました。中には広大な荘園や多数の奴婢を所有する家もあり、地方統治に大きな影響力を発揮しました。ここでも通婚関係を有力者同士に限って、その中で科挙を受験するようになりました。これが後の士林派をはぐくんでいくことになります。

 法制上は一般人を意味する良人と、奴婢に相当する賤人に区別されていました。良人の枠の中に両班から庶民までが含まれていたのですが、両班だけとってみても、中央で権勢を振るうものから、土班、郷班などと呼ばれる地域の有力者どまりのものまで、さまざまでした。
 庶民に相当する常民より上の階層には中人というものもあり、これは科挙の中の雑科、つまり専門職に従事する階層でした。これも子々孫々、代々専門職に就き続ける階層で、李朝後期には両班からは見下される存在になります。

 それから社会の下層ですが、賤人には公賤と私賤があり、後者は売買や相続が可能なものでした。つまり、事実上の奴隷制です。また、子供は母の身分によって奴婢になるかどうかが決まりました。
 女性の地位も大きく低下しました。朱子学の世界ですから、妻は夫に操をたてなくてはなりません。夫と死別した妻が再婚した場合、その子供達は科挙の受験資格を失いました。明朝との朝貢貿易の必要もあって、未婚女性が進献の対象となることもあり、早婚が流行したこともあったようです。

朱熹の肖像画……朱子学は李朝で重視された

 しかし、もっとも卑しい存在とされたのは、広大(俳優)と白丁です。白丁は、日本でいうところの穢多、非人に相当する身分で、屠畜や皮革製造業などに携わっていました。一般人との通婚が許されないのはもちろん、名前を名乗るにもルールがあり、住居も厳しく制限されました。
 十六世紀に反乱を起こし、義賊として知られる林巨正は、この白丁出身といわれています。

 李朝以後の朝鮮半島は、厳しい身分制度に縛られた社会を展開するようになったのです。

世祖の中央集権と燕山君のエロ政治

 世宗は晩年、病気に倒れたため、政務を世子(文宗)に委ねました。しかし、文宗も即位後たった二年で死去してしまい、十二歳の端宗が後継者となりました。
 どんな組織も、運用する人がいればこそ、想定通りの結果を出せるのです。幼王を囲む官僚達、特に集賢殿は大きな権力を振るうようになっていきました。直接国王に報告する直啓制度も廃止されてしまいます。
 これに危機感を抱いた首陽大君は、クーデターを起こしました。これが世祖です。反対勢力を次々処刑して、この時は中央集権化を進めることができました。

 続いた睿宗は病弱で一年ちょっとで死去。その次の成宗は僅か十三歳での即位となりました。
 世祖の努力は水の泡となりました。旧来の地主階級や外戚などからなる勲旧派が幅を利かせるようになったのです。ですが成人した成宗は、新興の科挙官僚である士林派を積極的に登用して、政治の主導権を取り戻しました。こうして四半世紀の間、李朝は平和で安定した時期を迎えることができました。

 しかし、その次に即位した李㦕、燕山君は、父とは打って変わって最低最悪の暴君でした。いわゆる「王様なら何をやってもいいんだ」を体現したような人物だったのです。
 国中に採青採紅使なるものを派遣して美女を掻き集め、最高学府だった成均館や円覚寺を酒池肉林の場に変えてしまいました。さすがにこれはひどすぎるので、士林派の官僚達も諌言を繰り返しましたが、疎ましくなったらしく、大逆罪の汚名を被せて処刑してしまいました。
 韓ドラの「宮廷女官チャングムの誓い」は、この辺りの時代を舞台に描かれています。但し、史実とかなり異なる内容ですが……

 この時期に、外戚や功臣の子孫である勲旧派は繰り返し士林派への巻き返しを図ります。燕山君が暗君だったことも幸いしてか、たびたび弾圧と粛清が繰り返されました。
 燕山君が廃立された後も、勲旧派の専横はとどまるところがなく、これを食い止めようとした中宗が再び士林派の人材を登用するも、対立が激化して政局は混乱し、国政は遅滞しました。北方からは女真人が侵入し、南部では恒居倭人が反乱を起こして、李朝の安定は脅かされました。

宣祖

 1567年、中宗の孫の李昖が即位しました。これが宣祖です。
 儒教に傾倒し、外戚の横暴に悩まされた宣祖は、士林派を数多く登用しました。しかし、外戚の勢力争いがなくなったと思ったら、今度は士林派の内部分裂が始まってしまいました。

 こうした状況下で、再び侵略の時代を迎えることになったのです。

壬辰倭乱

 その頃、日本の戦国時代は終わりに差し掛かっていました。本能寺の変で織田信長が倒れた後、豊臣秀吉が台頭して、諸大名は彼に服属する状況になっていました。
 恐らく1585年前後から、秀吉は中国の征服を現実の問題として考え始めるようになりました。その目的は諸説あり、今でも決着をみていません。彼個人の野望に歯止めが利かなかったのか、それとも新たな領土を求める家臣達の出世欲を抑えられなかったのか、諸大名の戦力を消耗させたかったのか……

豊臣秀吉

 ともあれ、秀吉は対馬の宗氏に、朝鮮国王の来朝を命じます。当時、秀吉はじめ多くの日本人が、対馬は朝鮮を支配していると思い込んでいたのです。だから、命令に従うだろうと考えていたのですが、実際には対馬のほうが朝鮮貿易に依存している状況でした。
 秀吉と朝鮮の板挟みになりながら、なんとか朝鮮側から通信使を送り込むのに成功したものの、秀吉からの国書には、当然ながら朝鮮を属国とみなし、明朝攻略の足がかりとなるようにとの命令が書き込まれていました。

 帰国した朝鮮通信使ですが、秀吉についての報告は、真っ二つに分かれました。というのも、当時、宣祖の宮廷では、士林派の分裂が政局を掻き乱していたからです。
 西人派の黄允吉日本の侵略の危険を告げると、東人派の金誠一大袈裟だと言う始末でした。外国の侵略が迫っているのに、党利党略を優先しているのです。しかも、宣祖は宣祖で、なんというかお勉強バカみたいなところがあって、結局、東人派が優勢なので、報告もそちらが正しいということになり、防戦準備は行われないことになりました。

 そうした中、ついに日本軍が釜山に上陸します。
 1592年、文禄の役(壬辰倭乱)の始まりです。

開戦当初、日本側はほとんど抵抗を受けなかった

 防衛態勢がまったく整っていなかったために、慶尚道の水軍はろくに戦いもしないうちに壊滅し、全羅道の水軍も動きませんでした。日本軍の上陸から半月ほどで、忠清道まで日本軍が接近し、焦った宮廷は申砬を将軍として派遣しました。
 ところが、申砬は鳥嶺の要害を捨てて、忠州の平野部に陣取ってしまいます。騎兵の優位を生かすためでしたが、そもそも彼は、日本軍が火縄銃を効率的に活用して戦うことを知りませんでした。結果は惨敗で、宣祖らはついにソウルを捨てて逃げざるを得なくなりました。

 一方、李舜臣率いる全羅道の水軍は、ようやくにして慶尚道に入って日本軍と交戦しました。海戦では朝鮮水軍は能力を発揮して、当初は戦果を収めていましたが、日本側が釜山の防衛に成功すると、以後、活動は縮小したようです。

 夏に入って明朝が援軍を派遣すると、局面が変わり始めました。
 それでも、二百年に渡る戦国時代で鍛えられた日本軍は容易に敗れず、一時の休戦協定を経て再戦し、最終的には明朝が講和をまとめてしまいました。ですがこの時、双方が穏便に講和を進めるため、秀吉側も明朝側も、相手が降伏したことになったというウソを伝えられたのです。

 要求が通っていないことを悟った秀吉は怒り、再度の出兵を決めました。
 1597年、慶長の役の始まりです。

蔚山城で日本・朝鮮&明朝連合軍は激しく交戦した

 李舜臣は日本軍の移動の報告を聞いて攻撃命令を受けていましたが、誤報や撹乱である可能性を考えて動きませんでした。そのために罷免され、代わりに政敵の元均が水軍を統括するようになりました。
 しかし、日本水軍を攻撃した元均は敗北し、軍船のほとんどが失われるという大損害を出すに至ります。
 再び指揮官に返り咲いた李舜臣は、寡兵を率いて珍島付近で日本軍の先鋒を打ち破りましたが、戦力の小ささゆえに撤退を選びました。

李舜臣は露梁海戦で戦死した

 ところが、今回はいくらも進軍しないうちに、秀吉が死去してしまいます。
 日本軍は撤退を開始しました。明朝との交渉で、無血撤退を取り決めた上でのことですが、朝鮮側とは合意に至っていません。そして秀吉の死は、明・朝鮮連合軍にも知れ渡っていました。
 どのような目的で追撃を決めたのかはわかりません。或いは日本軍の来襲がまたあるかもしれないと考えたのでしょうか。朝鮮水軍の李舜臣と明朝水軍の陳璘は、露梁で夜襲を仕掛けることにしたのです。
 これが慶長の役最後の戦いとなりました。不利な状態で戦った日本側は甚大な被害を出しましたが、一方で朝鮮水軍も李舜臣が戦死するなど、大きな犠牲を払うことになりました。

戦場となった朝鮮半島はズタボロに……

 日本軍の侵略は、朝鮮半島に大きな爪痕を残す結果となりました。

 もともと当時の日本の四分の一の人口しかない朝鮮半島だったのですが、戦闘によって多数の死者が発生しただけでなく、飢餓も蔓延しました。農地も三分の一に激減し、困窮した人々は李夢鶴に率いられて反乱を起こしました。また、宣祖がソウルを逃れた際には、固定された身分ゆえに暴徒と化した奴婢達が、名簿を焼き払いました。一緒に土地台帳や戸籍も失われたため、その後の行政にも支障をきたす有様でした。
 財政危機に陥った李朝は、官爵を与えたり、賦役を免除する約束をしたり、奴婢を解放するという条件を提示するなどして、納粟を奨励しました。そのために、身分秩序が混乱しました。
 人的損失も大きく、数万人もの人々が奴隷として東南アジア方面に売却されました。また、優れた陶工の多くが日本に連行され、西日本で陶磁器産業が発達する一方で、朝鮮国内では生産不足が起きました。
 景福宮など、国家中枢の施設も多くが焼失し、長らく再建されることはありませんでした。

 そして……士林派の党争はこの後も激しくなる一方だったのです。

 しかも、すぐ更なる災難が待ち受けていたのです。
 それは女真人の台頭でした。

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