朝鮮王国の滅亡

韓国
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光海君の失脚

 秀吉軍が去った後の朝鮮半島では、国家の立て直しが急務となっていました。にもかかわらず、例によって協力し合うということができないのが李朝の宮廷です。
 国家的危難の最中でもあり、宣祖は次男で庶出の光海君を世子と定めます。これはやむを得ないことでした。正室の懿仁王后は病弱で子に恵まれず、長男の臨海君はというと性格が粗暴で、先の戦争では加藤清正によって捕虜にされてもいました。その間、光海君は父を補佐して日本軍にあたり、戦後は復興に尽力しました。
 しかし、朱子学に凝り固まった当時の朝鮮半島では、長幼の序は非常に大きな意味を持っていました。明朝も、次男で庶出の光海君を後継者と認めるのには難色を示しました。
 その状況で、宣祖は新たに仁穆王后を迎え、待望の男児を得てしまいます。つまり、年少ながら嫡男です。そのため、光海君を支持するか、新たに生まれた永昌大君を支持するかでまた党争が始まってしまったのです。

 1608年に即位すると、光海君は国政の立て直しに着手します。
 しかし、党争ゆえの残虐行為は過熱するばかりで、まだ9歳でしかない永昌大君はオンドル部屋で蒸し殺され、兄の臨海君も殺害されました。とはいえ、これで当面の政局の安定を得ることはできたようです。

オンドル部屋での殺害は、非常に罪が重い人物に対して行うものだった

 1616年にヌルハチが女真人の勢力を糾合して、(後金)の建国を宣言しました。これに明朝は反応し、軍を派遣することにしました。当然ながら、李朝にも援軍を要求してきました。
 しかし、光海君は現実的に考えていたようです。かつて金が北宋を打倒した歴史くらいは知っていたでしょう。確かに明朝には「再造の恩」があるとはいえ、中国軍の横暴もかなりのものだったのです。加えて、光海君の即位に反対したのも、他ならぬ明朝でした。更に言えば、先の倭乱において加藤清正が女真人の領域に侵入したのもあって、ヌルハチは朝鮮と同盟して秀吉軍にあたることを申し入れてもいます。光海君としては積極的に敵対する理由がありませんでした。
 だから、どちらにも肩入れはせず、ナァナァでやり過ごそうとしました。姜弘立に一万余りの兵を与えて送り出しはしましたが、1619年に明朝がサルフの戦いで敗れると、光海君の密名に従った姜弘立は、ろくに戦いもせずに後金に降伏し、後には国書を交わして中立を選びました。

ヌルハチ

 朝鮮王国の存続という点では適切な判断だったのですが、儒教の道徳的観点からすると、光海君の振る舞いは暴虐そのものでした。兄を殺し弟を殺して、継母を幽閉し、恩義ある明朝に背を向けて、蛮夷のヌルハチ相手に妥協する……
 このために1623年、綾陽君(仁祖)と西人派が決起して、光海君を廃位の上、江華島に配流してしまいます。

 これが、復興間もない朝鮮半島に、次の戦乱を招きました。

清朝への屈服

 仁祖と西人派官僚は、明朝に接近して、後金に敵対的な姿勢を明らかにしました。明朝の将軍毛文龍に国内の通過を許可し、ために明軍はしばしば後金の国境を侵犯しました。
 ヌルハチの後継者となったホンタイジはこの状況を看過できず、1627年、朝鮮討伐軍を差し向けました。後金軍はすぐさま平壌を攻め落とし、明軍も叩き潰して、李朝と「兄弟の関係」とする和議を結びました。

ホンタイジ

 その後、後金は国号をと改め、更に中国方面に向かって勢力を拡大しました。一方で、朝鮮国内では、秀吉軍と戦ってくれた明朝に背を向けて清などと和議を結ぶなど、裏切りだとする声が儒学者達から挙がりました。もっとも、先にヌルハチが朝鮮への援軍を申し出た際に、それを拒絶したのは朝鮮側だったのですが……つまり、蛮夷の手を借りるなどとんでもない、ということです。
 つくづく朱子学というものは救いがないですが、このように現実的な判断ができなかったため、ホンタイジが続いて皇帝を名乗り、「兄弟の関係」「君臣の関係」とする条約を迫ってきた際に、またも李朝はこれを拒絶しました。あまつさえ、宣戦布告さえしてしまいます。

 するとホンタイジは、十万の兵を率いて南下。たった五日でソウルを陥落させます。
 仁祖は例によって、江華島に立て篭もって戦うつもりだったようですが、清軍の進軍速度が速すぎたために準備が間に合わず、結局、南漢山城で抵抗するしかなくなりました。しかし、軍備も整わず、糧食も不足したために、45日間の抗戦の末に、結局は降伏しました。

南漢山城

 無意味な名分にこだわって意地を張ったために、余計に惨めな結果を受け取ることになったのです。
 次代の孝宗は、清朝への屈辱を晴らすため、軍備拡張に励みましたが、その武力を見込まれて、かえって清朝の援軍としてロシアと戦うことにもなりました。

 清が明を滅ぼして中国を支配しても、李朝は清を蛮夷と看做し続けていました。
 朝貢使節は送りましたが、その呼び名も明朝時代には「赴京使」「朝天使」だったものが、「燕行使」と変えられています。燕、つまり行き先が北京で、そこは春秋戦国時代の燕国があった場所だから、間違いではないのですが、その表現は中国の天子への敬意をあえて省いたものとなりました。

 実際、以後の李朝は更に内向きになります。
 儒者達は「明朝が滅んだ今、中華の文化を正統に受け継いでいるのは我らだけだ」と考えるようになったのです。

礼訟

 17世紀後半の顕宗の時代、実にくだらないことが政治の場で議論されていました。

 仁祖の継妃の服喪期間がどれくらいであればいいか、という話です。孝宗は兄の昭顕世子が死んだために王となったのですが、この時、仁祖の継妃は嫡男に対する礼として三年の喪に服していました。その孝宗も死去したために顕宗が即位したのですが、では仁祖の継妃は、次は何年喪に服せばいいのでしょうか。
 次男なのだから一年でいい、という説と、仮にも王になった以上は嫡男と同じ三年にすべき、という説が対立したのです。

 現代人からすると「どうでもいい」の一語で済んでしまう話ですが、彼らにしてみれば死活問題です。そこには、孝宗の即位の正統性、ひいては彼ら両班の権威の問題が絡んでいました。
 一年説を主張したのは西人派、三年説を訴えたのは南人派でしたが、顕宗は西人の主張を受け入れました。結果、宋時烈を中心に、西人派の発言力が増しました。

西人(老論派)の重鎮・宋時烈

 ところが、次に孝宗の妃が死去すると、またもや仁祖の継妃の服喪期間が問題となりました。
 西人は「次男の妻なのだから九ヶ月とすべし」、南人は「王の妃であるから一年」と主張しました。今度は西人の影響力を削ぎたいのもあって、顕宗は南人の主張を受け入れました。

四色

 こうした派閥争いは、もとはといえば士林派の分裂に端を発しています。
 宣祖の時代に大量に登用された儒学者達は、1575年に東人派西人派に分裂しました。それが1591年、東人南人北人に分裂しました。この東西南北というのは、それぞれの派閥の領袖が居を構えていた場所に由来します。

 南人派は、秀吉軍の侵略時に権力を握っていた集団です。柳成龍は時の領議政でした。この時も、党争のために、日本軍への防衛対策がおろそかにされたのです。
 北人派も、先の光海君の即位に伴って、光海君に従うか永昌大君を支持するかで分裂しました。結果、光海君が廃立されたために、大北派も壊滅し、小北派だけが存続しました。

 では、残った西人派はというと、これも分裂するのです。
 宋時烈が宗廟における孝宗の扱いや、太祖の称号に関する建議を行ったところ、西人派の一部がこれに反発しました。こうして西人も老論少論の二派に分裂しました。

 南人小北老論少論。この四つを合わせて、四色というようになりました。
 1683年の老少分裂以前には、たとえ派閥が違っても通婚関係があったりもしたのですが、それもこの時点からなくなりました。特定の血縁と主義主張が固定化され、党派は血縁で受け継がれることになったのです。

 続く粛宗、景宗の時代……17世紀後半から18世紀前半にかけて、李朝中枢は、ひたすらこうした党争に明け暮れました。

英祖と蕩平策

 この状況を打開すべく動き出したのが英祖でした。

李朝中興の英正時代を作った英祖

 先の景宗は病弱で政務を執ることができず、そのために党争に歯止めがかかりませんでした。景宗の弟だった英祖は、反逆の計画ありとの誣告に巻き込まれそうになったりもしました。
 こうした経験から、彼は即位後、すぐさま少論派を追放しました。ところが、今度は対立する老論派が更に少論派への政治的報復にこだわったので、英祖は少論派から何人かを復帰させて政局を保ちました。

 党争の弊害に辟易していた英祖は、不偏不党の蕩平策をとり、各党派の勢力の均衡を保ちながら王権を確立していきました。
 即位四年にして、景宗の毒殺説を唱える南人派が南部で反乱を起こしました。これも党争ゆえと、英祖はますます蕩平策を強化し、これを指示する人材を均等に登用していきました。
 また、中央の政権に参与できなかった両班も、地方に書院を建てて根拠地としました。これも党争の火種になるため、英祖は新設を制限し、既存の書院に対しても、整理を行いました。

 一方で、まともな知識人は中央から目を背けるようになりました。
 科挙は既に形ばかりとなり、党派の力次第で結果が決まるようなものになってしまったので、学問に専念する人々は山林と呼ばれるようになり、こちらのほうが尊敬されるありさまでした。

安東金氏は慶尚北道に地盤を持つ有力な両班だった

 改革を進める英祖ですが、二つの過ちを犯しました。
 一つは、妻の貞聖王后が死去した時、安東金氏から貞純王后を選んだことです。後に彼女を足がかりとして、王朝末期の勢道政治が始まることとなりました。
 もう一つは、荘献世子を死に追いやったことです。少論派に学んだ荘献世子は、朝廷での勢力を強めていた老論派に憎まれ、貞純王后らの讒言により、徐々に英祖と対立するようになっていきます。そしてついに、英祖は彼を米櫃の中に閉じ込め、そのまま餓死に至らしめました

荘献世子、思悼世子ともいう

 こうした政局の中でも、英祖は国政の改善に取り組みます。
 均役法を通して減税を実現し、サツマイモの導入によって飢餓の回避を図るなど、功績は小さくありませんでした。

正祖の中興

 52年にわたる英祖の統治の後に、荘献世子の子である正祖が王となりました。
 その李祘(イ・サン)という名前がズバリそのまま韓ドラのタイトルにもなっているので、知っている人は知っているかと思います。

正祖

 正祖は最初、王世孫の時代から自分を警護してくれた洪国栄を重用しましたが、そのうちにあらゆる権力を掌握するようになったため、失脚させました。英祖の時代からの蕩平策を継承し、また実学の振興にも力を入れました。また、地方の不正を監視する暗行御史を派遣して、問題点の把握に努めました。この辺りは「春香伝」などの物語でも描かれています。

春香伝は暗行御史が活躍する物語

 特に正祖は、世宗と並んで好学の王として知られています。奎章閣を設置して、内外の図書の収集に努め、人材を養成しました。
 この時代、文化への関心は両班階級に留まらず、庶民にまで広がります。ハングルで小説が書かれ、詠み人もわからない庶民の詩が採集され、整理されました。
 自然科学や産業科学の分野でも、進歩がありました。地動説を唱えた洪大容、農業を重視し制度改革を唱えた柳馨遠など、近代志向の実学が成長し始めていました。

 正祖の時代の事件としては、大きく二つがあります。
 一つは、遷都の計画です。水原に城を築き、そこに都を移そうとしたのです。ですが、これは結局、完了できませんでした。

水原華城

 もう一つは、正祖の治世後半に起きた天主教問題……つまりカトリック弾圧です。
 既に清朝を通して、西洋の文物も朝鮮半島に流れ込んできていたのですが、知識人階級はそれらを西洋の学問「西学」として研究していただけでした。しかし、一部の南人の中には、そこから信仰に興味を持つ者が現れ、燕行使として中国に渡航した際に洗礼を受けて帰ることもあったのです。
 宣教師がやってくる前から、徐々にキリスト教が浸透してきたのです。ただ、儒学をしっかりと確立すればキリスト教の悪影響は避けられるとして、当初は柔軟な姿勢を保っていました。
 しかし、南人の尹持忠が母の葬儀の際に位牌を燃やし、カトリック式の葬式を行うと、世論が悪化し、正祖も彼を逮捕し、処刑しなくてはならなくなりました。

 18世紀末、列強の軍艦が朝鮮半島に訪れるようになりました。また、中国から宣教師が密入国する事件も起きました。
 時代が変わりつつある中、正祖は1800年、病のために世を去りました。

 以後の朝鮮半島には、二度と名君が立つことはありませんでした

安東金氏の勢道政治下にて

 19世紀前半の朝鮮半島の支配権を握ったのは、安東金氏でした。正祖に続いた純祖は豊壌趙氏を重用してこれに対抗しようとしましたが失敗し、勢道政治に歯止めがかかることはありませんでした。

 一家門に権力が集中する状況は、すぐさま政治の腐敗を齎しました。国の財源は枯渇し、負担に耐えかねた地方官庁は独自の税を創出して、更なる搾取を行いました。農民の負担は限界に達し、各地で流民と化しました。山地で焼畑農業を行う火田民になったり、都市に流入したり、火賊明火賊などと呼ばれる盗賊になったりしました。
 このような情勢の中で、1811年に洪景来が勢道政治に反発して蜂起しました。これには、一般の農民だけでなく、両班や郷吏などの地元知識人層も協力し、一時は平安道の八つの街を占領下に置きました。
 その後も、水害などの自然災害や疫病の流行などによって社会不安が増大し、1833年にはソウルでも暴動が起こりました。1862年には、悪政を敷いた地方官の白楽莘に対して在地の土豪が連携して立ち上がり、貧農層と共に彼を襲撃したことがきっかけとなって、全国で数十回もの暴動・反乱が続発しました。

 そうした国内の混乱に拍車をかけるように、外部からの圧力も増すばかりでした。
 過酷な社会経済状況は、民衆が救いを求める理由となりました。19世紀にはキリスト教は一般庶民の間にも広まり始め、度重なる弾圧にもかかわらず、歯止めがかからなくなっていきました。
 また、キリスト教(西学)の影響からか、崔済愚東学という宗教を創始しました。やがて理想的な時代がやってくるから、呪文を唱えて修業して、天と一体になろうというものでしたが、これもキリスト教と同じく、既存の儒教的秩序に反するものであったため、当局からの弾圧を受けることになります。

大英帝国は清朝をアヘン戦争で破った

 こうした状況につけこむように、19世紀半ばには、欧米列強の艦船が朝鮮半島に迫るようになっていました。ちょうど清朝は阿片戦争に敗れたばかりで、李朝としても対応を必要としていたはずですが、ほとんど有効な手立てを打つこともなく、ただ時が過ぎていきました。

大院君の改革

 1863年に哲宗が後嗣なく死去すると、興宣君の子が王位に迎えられました。これが高宗です。
 この時、高宗が若年であったため、興宣君が政権を握りました。これが今では「大院君」として知られる人物です。

興宣大院君

 大院君には、国政を改善する意志はありました。ただ、とにかく時代には追いついていなかったというべきでしょうか。
 評価できる点から言うと、小作人制度を廃止して、土地の分配に踏み切り、安東金氏に対抗するため、南人、北人の登用を図りました。書院を拠点とする両班勢力を弱めるため、賜額書院として認定された47箇所以外、すべてを廃止しました。
 一方で、王家の権威を高めるため、先の秀吉軍によって焼失した景福宮などの再建を行いました。このために願納銭の徴収、悪貨である当百銭の発行、ソウルの城門で通過税を徴収などなど、民衆に負担をかける政策をとりました。
 対外的には、とにかく「攘夷」政策を選びました。1866年、アメリカの商船ゼネラル・シャーマン号が大同江を遡って平壌に到達し、開国を求めて発砲するなどしたため、これを焼き払って沈めました。1871年になって、これを口実にアメリカ軍が江華島に上陸しましたが、徹底抗戦を選んで撤退させました。

 なんにせよ、勢道政治を終わらせるのが重要な課題でした。
 そこで大院君は、王妃にしても恥ずかしくない家門で、かつ大きな勢力基盤のないところを探しました。それが驪興閔氏でした。

閔妃と開国

 1866年、高宗14歳、閔妃本人は15歳の時、王妃の地位に就きました。まだ、この時期は大院君が政権を掌握していたのです。
 ですが1873年、高宗が親政を始めると、崔益鉉が大院君の政策を弾劾します。これは、大院君にとって寝耳に水でした。崔益鉉は大院君が登用した李恒老の門人であり、政策方針では大院君と同じく衛正斥邪派に属していたからです。
 実のところ、大院君の政策実行は強引で、多くの敵を作っていました。あまりに独断専行が過ぎるために、同じ思想の持ち主であっても、賛成できないほどでした。
 また、閔妃の恨みを買っていた点も見過ごせません。高宗が寵愛する李尚宮が長男を産むと、そちらを世子にと考え、閔妃を省みなくなったのです。

閔妃

 この結果、権力は気弱な高宗に替わって閔妃の手に移りました。彼女は閔一族を登用して、結局、勢道政治に逆戻りしてしまうのです。
 1875年、日本の軍艦雲揚号は江華島に接近し、ボートで本土と江華島の間の水路を通過しました。これを見た朝鮮側が砲撃すると、応戦して永宗島を占領しました。この件で、朝鮮側の「砲撃の責任」をとってもらうという口実で、日本は有利な条約を結ぶことを考えました。
 閔妃は開戦を回避し、日朝修好条規が結ばれました。これは日本が欧米列強に締結させられた不平等条約の上をいくものでした。

高宗

 この状況に危機感を覚えた清朝は、それとなく李朝にその他の列強との通商条約も結ぶよう、仕向けました。日本だけが朝鮮半島に食い込む状況を避けたかったからです。一方、閔氏政権が日朝修好条規の危険性に気付くのは、ずっと後でした。
 日朝貿易が盛んになると、朝鮮国内からは金の地金食料品などが輸出され、イギリス綿製品が中継輸入されました。これは朝鮮側においては食料品の高騰を招き、あちこちで飢餓が発生する事態に陥りました。

開化政策とその挫折

 1880年に至ってようやく、閔氏政権は朝鮮の近代化の必要性に気付き、改革が始まりました。しかし、大院君と閔妃の間の怨恨は残っており、かつ急激な改革は保守派の反発を招きました。
 財政難もあって兵士達への給与支給がままならなかったため、暴動が発生し、これを機に一時的に大院君が権力を取り戻すと、日本と清朝は先を争って介入しました。
 この、日清の介入が、李朝の開化政策にとっては不幸となりました。例によって派閥争いが繰り返され、しかも外国勢力がそこに肩入れするようになり、そのたびに流血が繰り返されることになったからです。両国の介入に対抗しようにも、国力が足りず、ロシアに接近する動きまでみられました。

 その間も、李朝が無策だったわけではありません。漢城~釜山間、漢城~元山間の電信線を自力で敷設し、汽船で税米の輸送を行い、アメリカ人陸軍将校を招聘して士官学校を運営しました。
 そうして十年近く軍備と技術の革新に取り組んだのですが、財源が尽きました。外国からの借款と関税収入をあてての改革だったのですが、借款の利子が膨らんで、返済不能に陥っていったのです。こうして開化政策は停滞しました。
 その一方で、長期にわたる閔氏政権の支配により、汚職が横行するようになりました。賄賂、官職の売買などが行われ、そのための資金を得るために、地方官は民衆から搾取するようになったのです。

甲午農民戦争と日清戦争

 そうした状況で、東学教徒が動き出しました。
 邪教を広めたとして処刑された崔済愚の罪名を取り消し、教団の合法化を目指して、集会を繰り返したのです。彼らはまた「斥倭洋」と記した紙を各国の領事館やキリスト教会に貼っていきました。
 そしてついに、1894年に全羅道で東学の幹部、全琫準の指導の下、反乱が発生しました。不正に収奪を繰り返すこれが甲午農民戦争の始まりです。彼らは、日本勢力と閔氏政権の打倒を唱えていました。
 李朝には、これを自力で鎮圧する力は残されていませんでした。そしてこれに介入した日清両国は、そのまま日清戦争へと突入していきます。

全琫準

 清朝の影響が後退すると、李朝は窮地に立たされました。こうなればもう、ロシアの介入に期待するしかありません。もはや自立など遠い夢です。
 こうした親ロシアに流れる閔氏政権、その中心人物である閔妃は、日本にとって目障りな存在でした。

日韓併合へ

 1895年に着任した日本公使三浦梧楼は、朝鮮半島における日本勢力の挽回のために、閔妃殺害を計画しました。日本公使館や日本軍守備隊、更には大陸浪人まで掻き集めて、既に権力を失った大院君を強引に担ぎ出して景福宮に侵入しました。

三浦梧楼は閔妃殺害を指揮したとされるが……

「王后の寝室をおかして王后を殺害し、その死体を陵辱したのち、これを焼き払った」(山川出版社『朝鮮史』)

 もはや朝鮮半島の運命は朝鮮の人々ではなく、それを取り囲む外国の手に握られていました。
 日露戦争を制した日本は、ついに1910年、日韓併合を果たします。

 以後、朝鮮半島は日本の植民地としての時代を経験します。それが終わったのは、第二次世界大戦の終戦後でした。
 ですが、その後も東西冷戦の影響を受けて、南北に分断されました。朝鮮戦争は停戦状態にあるだけで、終わったわけではありません。

 激動の歴史を経てきた朝鮮半島ですが、本当の平和が訪れるのは、まだ先のようです。

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