防犯の心得
軍隊や武装勢力、はたまたマフィアといった「大きな」危険も恐ろしいですが、通常、街中で起きる犯罪というものは、そういう大組織の手によるものではありません。マフィアがかっぱらいの後ろ盾になっていることはあっても、かっぱらいで生計をたてているはずがないからです。
貧しい人は、ごく個人的な理由で犯罪に手を染めます。まともに働けない人、モラルを踏み外した個人なども、同じです。
たとえ集団であっても、この手の犯罪者は個人です。これが重要なポイントで、政治的リスクとは異なる対処が求められる要因となっています。

具体的には、軍隊やテロについては、回避する以外の選択肢がありません。何千人もの兵士が上官の命令で一斉に発砲するような、そんな強大な組織には、ただの旅行者ができることなど、何もないからです。だからといって、彼らが旅行者個人を見過ごすとも限らない点も覚えておいてください。外国人の人質には利用価値があるからです。
逆にただの個人、または個人の集合でしかない小規模な犯罪者は、むしろ弱者です。犯罪行為が露見すれば逮捕されますし、そもそも軍隊と違って潤沢な資金がありません。仕事仲間はいるかもしれませんが、それもまた、基本的には同じ境遇の貧しい人です。
この違いは、行動に現れます。
犯罪者は「怖い」のです。襲った相手に反撃される、逃げられる、通報される……
だから、そもそもそのリスクの小さい相手しか、襲いません。具体的には、女性であるとか、単独行動をしているとか、そういう要因がある相手です。
それゆえに、防犯対策はシンプルです。
- 一人で行動しない。
- 目撃者が多数発生するような大通りを昼間歩く。
- 無理をしないで済むよう、時間の余裕をもたせる。
- 体力にも余裕をもたせる。判断力の低下に気をつける。
- 観光客であることを知らせない。具体的には、ガイドブックを広げない。カメラを向けない。
- 財布など、お金の在り処をなるべく露出しない。引いているカバンやスーツケースを手から離さない。
- 話しかけてくる相手の目的をよく考える。誰であれ、相手に求めるものがあるから、アクションを起こしている。
こんなの、いちいち言われるまでもないことです。
けれども、その当たり前のところでうっかり躓くのが人間です。
というか、私自身、強盗にフルボッコにされて、命からがら逃げ出した経験があります。
恥ずかしい限りですが、実際に強盗に襲われるとどうなるかを知っておくのは、きっと読者の皆様のお役に立つことでしょう。
被害の実体験(恥)
かなり昔の話です。
私は、かなり長期の旅行を計画していました。イギリスから入ってヨーロッパ中を歩き回ってから、最後にローマから出国する。大旅行ということで、気持ちも浮ついていたに違いありません。

ロンドンで知人に会って、最後にお酒を飲んでハイになったまま、海峡を渡る船に乗り込みました。アムステルダム到着は真夜中の二時頃。眠気もひどく、しかも冬場だったため、駅構内もかなり冷え込んでいました。
さっと見上げると、駅の二階には、なんだか安っぽいハンバーガーでも出してそうな店が営業しているのが見えました。うわ、マジか、あそこで夜明かし……?
今の自分であれば、迷わなかったでしょう。即座に階段を登って自分の席を確保したはずです。ですが、当時は違いました。ボンヤリと見上げるばかりでした。思い返すと情けないのですが、隙だらけだったと思います。
そこで、いきなり話しかけてくる男がいました。小柄な黒人の男です。現地の背の高い白人の女性も話しかけていたので、地元民かな、くらいに思っていました。あと、もう一人、黒人の女も横にいました。
小さい男と、それと同じくらいの体格の女です。二人がかりで襲いかかってきたら勝てるか、と言われたら、別に強くもなんともない私ですが、勝てないまでも、逃げ切るくらいならできる自信がある、と答えたでしょう。つまり、二人は脅威を感じさせませんでした。
「お前はどこから来たんだ」
「どこへ行く予定なんだ」
あれこれ尋ねられて、私は普通に受け答えしていました。
「ハッパでもやりにきたのか」
「いや、興味ない」
「じゃあ、何が欲しいんだ」
「眠い。ホテルに行きたい」
ああ、恥ずかしい……
オランダはチューリップのお花畑で有名ですが、当時の私の頭の中もお花畑だったと思います。

表向き、オランダは「風車」と「チューリップ」と「堤防」の国とされていますが、実のところは「麻薬」と「売春」と「銃器犯罪」の国なのです。飾り窓の売春地帯近辺では銃器犯罪が多発しています。西ヨーロッパの麻薬の集積地でもあります。それこそが「犯罪都市」アムステルダムだと知ったのは、この後のことでした。
「俺はいいところを知ってる」
「そうなんだ?」
「案内してやる。こい」
そこでホイホイついていく私の間抜けなことと言ったら。
しかし、疲労困憊していた上に、アルコールも多少入っていたので、かなり思考力が落ちていたはずです。だからこそ、今の私は「旅行は体力大事」「サバイバルだと思え」と口を酸っぱくして言うのですが。
夜のアムステルダムには、人通りがほとんどありません。そんな中、駅前の大通りをひたひたと歩きました。
あるところですっと奥に曲がったのを見て、私は何の疑問も抱かず、後に続きました。そして……
ん?
なんだか鉄格子の降りた建物があるけど、なにこれ?
後日、現場を自分で見に行ったのですが、コーヒーショップでした。アムステルダムのコーヒーショップというのは、マリファナを吸う場所のことです。麻薬中毒者どもには、お馴染みの場所だったわけですね。

「金を出せ」
はい?
「金を出せ」
何いってるんですか、アナタ……
と思っていたら、後ろからヌッと格闘家を思わせる巨漢が姿を現しました。
コレは勝てない……しかもナイフ持ってるし!

三人は、私に飛びかかってきました。小柄な男は大したことなかったのですが、やはり体格の差は大きいです。あっという間にテイクダウンを取られたかと思うと、いきなりビリッという音が聞こえました。
そう、いざという時のためにお金やパスポートを、服の内側のウエストポーチに入れておいたのですが、強盗なんだから、そんなのとっくに承知だったのです。といって、それを引っ張り出すのも難しいので、服ごとナイフで切り裂いて無理やり奪ったというわけです。
この時、私が何を思ったか。
「あれ? 強盗って案外無防備じゃね?」
私を押さえ込もうとしながら、こちらのポケットをセカセカと漁る小柄な男。しかし、私の両腕はフリーなまま。これ、ちょっと手を伸ばせば眼球潰せるなぁ、と。
ただ、それをやったら、大柄な男のナイフがモノをいいそうだ、ともすぐ気付きました。
彼らの慌てぶりから感じたのは、今思えば焦りでした。犯罪ですから余裕なんかないのです。
「抵抗するな! 俺達は銃を持っている!」
小柄な男がそう言いました。直感的にウソだとすぐわかりました。持っているなら、突きつければいいからです。それをしないということは、こいつらの武器はナイフくらいしかない。でも、ナイフがある。間違えば、やはりこちらが死にます。

嵩張らないものを奪った彼らは、そこを動くな、と言い残して走り去っていきました。
私は数秒考えてから、別方向に向かって走って逃げました。
「誰も助けてくれない」ということ
さて、強盗に襲われたら、その後どうなるでしょうか。
警察に駆け込む? しかし、こちらは土地鑑のない旅行者です。場所がわかりません。
となれば、とにかく手近にいる人に救いを求めるしかないのです。しかし、人通りもないので、そうなると後は……

……ホテルがありました!
夜中でも起きている人はいるはず。私は駆け込んで救いを求めました。
「助けてください! 強盗に襲われたんです!」
「警察署はあっちよ」
はい?
面倒臭そうに、カウンターに座る女性は手を振るばかりでした。
ええい、次だ!
「助けてください! 強盗に襲われたんです!」
「あなたはここの宿泊客?」
「いいえ」
「警察署はあっちよ」
なんてこった!
どこもこんな感じとは!
これで大幅に時間をロスしてしまいました。結局、自力で警察署を発見するまで、走り続けなくてはいけませんでした。
警察は形ばかりの捜査をしましたが、それだけでした。私を襲った男は凶悪犯として知られていて、麻薬中毒者で、たったの5グルデンで人を殺したこともあるそうです。なぜそんな奴が野放しになっているのか、と思ったのですが、海外ではそんなのが普通です。
怪しい人を捕まえて尋問したところで、証拠なんか出ません。なぜなら、盗品を奪った後、すぐ別の人に預けるからです。あとはのらりくらりと俺はやってない、知らない、証拠がないじゃないか、で済んでしまいます。
というわけで、一般市民も、警察も、被害者を助けてくれるようなモノではありません。
海外では、犯罪者のが強いのです。先進国でも、それは変わりません。
私の失敗の要因は、いくつもあります。
まず、何より体力や時間の余裕を見ておかなかったこと。これが判断ミスに繋がりました。
そもそも一人旅をしていた点も無視できません。相手が複数だったら、犯罪者も目をつけにくかったでしょう。私を襲うのに三人がかりだったわけで、これが男二人だったら、絶対に手控えていたはずです。
それから、話しかけてきた相手の出自を考えなかったこと。なぜオランダに黒人がいるかをよく知らなかったのです。
実はオランダには南米に植民地がありました。スリナムがそれで、今でもオランダ語が公用語です。そこから渡航してくる連中が、こうしてアムステルダムで犯罪者になったりするのです。だから正確に言うと、私を襲ったのは「黒人」ではなくて、黒人やインド人などの混血だったことになります。
国情をよく知っておくことの重要性は、こういうところにも現れてくるのです。
尻拭いはあくまで個人
では、襲撃を受け、警察に保護されてからはどうなるか、ですが……
警察は、被害者を後々までケアする能力を持っていません。よって、その先は民間非営利団体の出番になります。アムステルダムにはATASという組織があり、そこに送り込まれることになりました。
ボランティアの高齢の男女が出てきて、私の話を聞いてくれました。ただ、失礼ながら、私の目は、男性のほうの鼻毛に釘付けでした。ちょっとはみ出てるというレベルではなく、それこそ牛乳飲んで鼻から出したくらいのレベルで、金色の鼻毛がドバッと出ていて、そこから目が離せなかったのです。こんな時に、何を考えていたのでしょうか、私は。
しかし、ATASもまた、私を長期間預かることはできませんでした。犯罪の被害者なんて、山ほどいるのです。しかし、外国人がまた、パスポートの代わりを手にして出国するまで、十日以上もかかることがあります。一晩の宿は用意してくれましたが、そこまででした。
とりあえず、私はアムステルダムの街中に出て、自分の持っていたクレジットカードを止めることからやらなくてはいけませんでした。

それを済ませたら、今度はもらった電車のチケット(日本にいる家族の送金の約束によって買い取った、とするほうが正確ですが)でデン・ハーグに向かいました。そこには日本人女性のルイザ・ひろこ・ローゼンダールさんがいました。
つまり、警察もATASも、犯罪被害者の面倒を長期的にみることなどできないので、実際に問題が起きた場合には、長期的に頼れる場所としては現地在住の邦人になるのです。最終的に個人に頼るしかないとは、なんとも言えない気持ちになります。
彼女に言わせると、この手の人を預かるのは珍しいことではないようです。
当時、オランダにはスリナムその他の国々から、ムスリム系の住民なども多数流入してきて、社会問題になっていました。とある日本人女性がオランダでその手の男性に惚れて、結婚までしたのに、家庭内暴力に耐えかねて逃げ出したこともあります。その時も、隠れ家になったのは彼女の家でした。
ところが、警察の紹介で女性を預かったのに、しばらくするとそのドメスティックバイオレンス男が、この家の前まで来て大騒ぎしたというのです。要するに、移民でもあっさり警察などの公務員になれてしまい、その移民は、犯罪者の移民仲間とつるんでいるので、情報がダダ漏れということなのです。
本当に犯罪は珍しくもないらしく、私がローゼンダールさんの家にいる間に「仲間」がもう一人増えました。バイリンガルの日本人で、イギリスの音大に通っている男性でした。なんでも入浴中に衣類ごと全部盗まれて、パスポートをなくしたのだとか。海外で長期生活を送っている人ですら、こういう目に遭うことがあるのです。
彼女の家では、およそ11日間、お世話になりました。
大使館などに手続きのために出入りして、やっとこれだけの日数をかけて、パスポートその他の身分証明書を取り揃えることができたのです。
旅に出た以上、あなたはこの世界で一人きり
結局、犯罪に遭遇してしまったら、どうしようもありません。ここでも重要なのは、やはり予防なのです。カバーしきれない部分がどこなのか、自覚した上で行動するようにしましょう。
自分で自分を守るしかない。よく「あなたは一人じゃない」とか、社会のスローガンで出てきますが、こと海外旅行に関していえば「あなたは一人きり」なのです。誰も守ってくれません。やられる奴が悪い。それが世界だと。少なくとも、そう思っておいたほうがいいです。
以上、なんとも間抜けで情けないお話でしたが、参考になれば幸いです。