フロンティアの消滅

アメリカ合衆国
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南西部の諸民族

 大平原の先住民が合衆国の圧力を受けていた頃、南西部のネイティブ・アメリカンも、最後の戦いを展開していました。

 彼らは早い段階から西欧人と接触がありました。スペイン人がアステカを滅ぼしたのは16世紀前半ですから、地理的に東海岸よりメキシコに近いこの地域では、むしろ遥かに早く旧大陸の文化が流入していたのです。
 マヤやアステカの影響なのか、都市を構築していたプエブロ族も存在しており、そことの交易関係を築いていたアパッチ族、その支族のナバホ族などは、既に銃器も馬も手に入れていました。それにズーニー、ケレス、ピリ、テワ、ヤヴァパイ、モハベ、ホピ……数多くの部族が、灼熱の砂漠地帯に生きていました。

ホピ族の遺跡

 この地域の先住民は、合衆国にとって非常に厄介な相手でした。既にスペイン人相手に、西欧文明との戦いを経験していたからです。

アパッチ族

 加えて、過酷な自然環境がありました。今のアリゾナ州やコロラド州に広がる半砂漠地帯は、人間が生存していくにはかなりの困難が伴います。
 そこでアパッチの戦士達は、幼少期から過酷な訓練をこなしてきました。川の水がで覆われていても、彼らは必ず朝早く起きて水浴びをしました。また、口の中に水を含んだまま、山を駆け上ったり、また駆け降りたりしました。正しい呼吸法を身につけつつ、アパッチ族の特徴をなす忍耐力を養うための鍛錬でした。
 こうした厳しい日々の中で、アメリカ南西部の環境に適応しつつ、西欧の武器と馬を手にした先住民が、入植先のことを何も知らない白人を相手取ったのです。

アパッチ戦争の始まり

 1821年にメキシコがスペインから独立すると、メキシコは財政逼迫から、インディアン居留地への出費を抑えるようになりました。そのため、特別保留地に押し込められ、最低限の生活もままならなくなったアパッチ族は、ますます襲撃を繰り返すようになりました。
 すると、メキシコ政府は、どちらが野蛮人かもわからないような方策を打ち出しました。

 1825年にソノラの州知事が、14歳以上のアパッチ戦士の頭皮に100ペソの懸賞金をかけたとき、アパッチ族の心に深く根付いたメキシコ人への憎悪は、更に燃え上がった。1837年には、それをチワワ州が真似て懸賞金をかけたが、対象を広げて女の頭皮に50ペソ子供の頭皮に25ペソを支払った。

フック(1987)

 その賞金は、争いを好まない人々まで巻き込みました。

 銅鉱山ミンブレノ族というのは、メキシコ領サンタ・リタで働いていたアパッチ族のことを指しますが、そのリーダーのフアン・ホセ・コンパは、地元のメキシコ人と安定した関係を構築していました。それが1837年、アメリカ人の商人ジェームズ・ジョンソンのパーティーに呼ばれた時、一変しました。
 何も知らないコンパは宴会を楽しんでいましたが、実は見えない場所から銃器と大砲が狙いをつけていたのです。ジョンソンが合図をすると、一斉に発砲され、彼らは惨殺されました。コンパらの頭皮は剥ぎ取られ、換金されました。

 それを知ったマンガス・コロラドスは、武器を手に立ち上がりました。最初の襲撃で22人のアメリカ人採掘者を殺害しました。1851年に採掘者の集団に捕らえられて殴打されると、ますます攻撃的になり、以後は「帽子をかぶっている者はすべて殺せ」と命令するようになりました。先住民には帽子をかぶる習慣がなかったからです。

ジェロニモ、インディアンネームは「ゴヤスレイ」

 こうした先住民の戦いは、米墨戦争の結果、カリフォルニアやニューメキシコを併合した合衆国にも向けられるようになっていきます。
 1862年、まだ南北戦争中ですが、アパッチ族と合衆国は、はじめて戦端を開きました。先住民の連合軍を率いていたのはコロラドス、そして彼と同盟したコーチースで、そこに後に大戦士として知られるようになるヴィクトリオジェロニモ達が続いていました。

ロングウォーク

 この戦いを経て合衆国側はますます残忍な手段を取るようになりました。
 翌年、コロラドスを捕縛すると拷問にかけた上で殺害し、クリストファー・カーソン大佐を派遣してナバホ族、メスカレロ族の討伐に向かわせ、両部族を特別保留地に連行させました。
 カーソンは全面戦争を仕掛けて先住民の生活基盤を破壊し、その上で後にロングウォークと呼ばれることになる強制移動を命じたのです。9000人ものナバホ族が500キロもの距離をほとんど徒歩で旅をしなければならず、その途上で何百人もの人が過労と突然の処刑によって命を落としました。更に保留地の劣悪な環境によって、それ以上の人々が命を失いました。

ドーズ法と蔓延する飢餓

 1871年、ついに合衆国は「先住民の主権を認めない」との宣言をしました。

インディアンの土地、売ります

 これはドーズ法と言われており、具体的にはネイティブ・アメリカンの保留地を部族単位には承認せず、個人単位に分割して与える、というものでした。そこで農耕生活をさせようとしたのです。個人といっても、ではその土地を自由に売買できるかというと、その権利もありません。
 要するに「もはや合衆国はインディアン部族を独立国家と認めない、したがって今後は条約は結ばない」ということです。インディアンが領土を主張し、白人から通行税を取ったり、鉄道の敷設に抵抗したりすることに、白人の不満が高まっていたがゆえの措置でした。

 この法律に、文明化していた知識人インディアンは反対しました。
 特に、スー族には農耕文化がまったくなく、このために合衆国に屈服した集団は、深刻な飢餓にさらされました。

 そして当然ながら、これは南西部先住民にとっても許容できるものではありませんでした。
 彼らの戦いは、ますます過激になっていきます。

アパッチ必殺アイテムは……

 そんなアパッチ族を制圧する方法として、西欧人は妙手を思いつきました。です。
 19世紀後半に活躍したアパッチ族の英雄ジェロニモも、これには悩まされたようです。以下、彼の自叙伝からの引用です。

 荷車には柳の籠があり、その中に瓶詰めにされたメスカル酒が入っていた。
 野営地に戻った途端に、インディアンは酔っ払って取っ組み合いを始めた。自分もメスカル酒をたっぷり飲んでいい気分になったが、酔いはしなかった。喧嘩をやめろと命じたが、命令は無視された。
 いつの間にか喧嘩は本気になっていた。野営地の周囲に見張りを立てようとしたが、みんなへべれけになっていて、言うことをきかない。
 メキシコの兵隊がいつ襲ってくるかもわからないから、これは自分にとって大問題だった。この遠征隊に何かまずいことが起こったら、指揮官の自分に責任があるからだ。
 そうこうするうちに野営地は少し落ち着いてきた。インディアンが酔いつぶれて、歩くことも喧嘩することもできなくなったからだ。みんなが前後不覚になっているうちに、自分はメスカル酒を全部カラにして焚き火をすべて消し、運搬用のラバを野営地からかなり離れた場所に移動した。

 忍耐力に優れたアパッチ族といえども、泥酔していてはどうにもなりません。
 まして、アルコール依存症が進行すると、それを供給するヨーロッパ人にますます頼るようになりました。これは深刻な秩序の崩壊をもたらしました。

 そしてもう一つ、先住民にとって不利な状況が生じていました。火器の性能の向上です。
 東海岸に入植者が住み着きだした頃は、銃器といってもせいぜいマスケット銃で、その貫通力は低く、樹木を体に挟めば容易に遮蔽物とすることができました。しかし、19世紀も末となると、これらの武器の威力は飛躍的に増大し、少々の防御力では防げなくなっていました。また、銃弾の再装填と発射にかかる手間も、大幅に短縮されるようになってきました。
 それはもちろん、こうした武器を奪って使う先住民の側も享受できた利益ではありますが、しかし、彼らには武器や弾薬を自作する能力がありませんでした。手に入れたライフルの種類次第で必要な弾薬も違ってくるわけで、戦闘に勝利して軍需物資を略奪したからといって、それがすぐさま利用可能になるとは限らなかったのです。
 かといって、交易によって武器を購入することもできませんでした。この時代には、当局がインディアンへの武器販売を厳禁していたからです。もはや合衆国は、インディアンを撃退するのではなく、殲滅する方向で活動していたのです。

ジェロニモ達の戦い

 合衆国による再移住の強制は、アパッチ族らの反抗を招いただけでした。
 ヴィクトリオやジェロニモは、仲間達を連れて、特別保留地のサンカルロスから逃げ出し、クルック将軍率いる米軍に抵抗して、ゲリラ戦を展開しました。

クルック将軍

 アパッチ族の強みは、なんといっても環境への適応にありました。
 彼らは他の先住民と同じく、短く猛烈な待ち伏せ攻撃を浴びせると、すぐに撤退を始めました。それを米軍が追撃すると、アパッチ族の戦士はつかず離れず、ギリギリ米軍がついてくる程度の速さで撤退するのです。必要なら、わざと発見されるように痕跡まで残したりしました。
 そうこうするうち、アメリカ南西部の過酷な天候により、米軍は消耗していきます。昼は灼熱、夜は極寒の砂漠で、充分な水も得られず、疲れ果てていくのです。そうなってから、アパッチ族は反転して攻撃を加えました。
 逆に米軍が撤退すると、アパッチ族はどこまでも追撃しました。白人にとっては荒野でも、彼らにとっては庭だったからです。足に水ぶくれができるような砂漠の炎天下でも、彼らは何十キロでも踏破することができました。
 そしていざ、不利となれば、すぐさま環境の中に溶け込んで、姿をくらましました。

 狡猾さにかけては、どんな蛇もかなわない。彼は素早く身をかわし、縫うように進み、あらゆる方向に進路を変える。磁石を混乱させて狐のように裏をかき、岩場の一角に達した途端に仲間を散開させる。万事が順調に進めば、それで追跡は難しくなるのだ。

ジョン・G・バーク 『クルック将軍とともに国境にて(On the border with Crook)』

 ゆえに、米軍がアパッチ族と渡り合うためには、やはり先住民の協力が不可欠でした。クルック将軍はこう述べています。

「ダイヤモンドを磨きたいなら、ダイヤの砂で磨くのが一番だ」

 合衆国の側も、インディアンの強みが何であるかを理解しつつありました。それまで二百年以上も戦ってきたのですから、それも当然です。
 そのために、アパッチ族も徐々に力を失っていきました。大戦士ヴィクトリオも1880年に戦死し、続く抵抗はジェロニモの手に托されました。

1886年、ジェロニモと二人の息子、部下の写真

 1881年に再びサンカルロス特別保留地から脱出すると、翌年、ジェロニモは戻ってきました。但し、居留地を見張る白人を倒して、仲間達を連れ出すためにです。
 そこから四年間に渡って、彼は抵抗を続けましたが、ついに1886年9月、彼もまた、アメリカの軍門に下りました。

 このページのトップ画像は、抵抗をやめた後の晩年のジェロニモの姿です。

ウーンデッド・ニー

 一方、大平原でもインディアン掃討作戦が終盤を迎えようとしていました。

 その頃、サウスダコタのラコタ族の間では、救世主信仰のゴーストダンスが流行していました。狩猟民のスー族ですから、土地を奪われ、好きなように狩りもできない状況ゆえに、飢餓に苦しんでいたのです。だから「入植者がいなくなる」という教義を含んだ新宗教は、彼らの心を捉えました。
 当然、合衆国にとっては危険な州境ですから、取り締まりは厳しく行われました。そのうち、信者達の間にも、抵抗は無駄だという空気が流れ始めました。

 ミニコンジュー族のリーダー、ビッグフットも、既に当局に逆らう意志はなく、仲間を連れてサウスダコタのパインリッジ特別保留地に向かっていました。ところがその途中で米軍の指示があり、野営地を目的地付近のウーンデッド・ニー・クリークに変更させられました。
 彼らがそこに野営しようとすると、その周囲を第七騎兵隊が取り囲んでいたのです。しかも、砲兵陣地まで据えて。
 12月29日、米軍は彼らの武装解除を進めようとしましたが、その際に小競り合いが起きました。最初の発砲が引き金になり、瞬く間に虐殺が始まり、終わりました。気がつくと、三百人近い先住民が、死体となって転がっていました。

ウーンデッド・ニーの虐殺

 これがウーンデッド・ニーの虐殺です。
 当局が目指していたのは、インディアンの根絶だったのです。

 この年、合衆国政府は「フロンティアの消滅」を宣言しました。
 カナダを除く北米全土が、アメリカ合衆国の支配下に収まったのです。それは先住民の自立が永遠に失われたことを意味しました。

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